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死の講義 ① (読書記録)

「このわたし」が死ぬことは、経験的な出来事ではない

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とても美しいデザイン。

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1章・死ぬということ

死は科学を覆す

 死はあべこべに科学の土台を覆してしまう。
 科学は、この世界の経験的な出来事を、合理的に説明するものだった。その科学を担うのは、生きている人間である。

 ところが「このわたし」が死ねば、世界がなくなる。わたしはもう存在しないし、なにも経験できない。経験できる出来事がない。つまりもう、世界がない。科学は、経験的な世界についての知識なのだから、科学の成り立ちようもない。死によって科学は、せかいもろとも、あらぬ彼方に投げ出されてしまうのだ。

では、なにが役に立つのか。

哲学&宗教

 哲学は、役に立つのかもしれない。哲学は、自分がものを考えるということはどういうことか、を考えるようにできている。科学のように「世界の経験的な出来事を、合理的に説明する」ことだけに、縛られていない。人間が死ぬということも織り込んで、その覚悟で、ものを考えるのが哲学だ。
 宗教も、役に立つかもしれない。宗教は、この世界がここにこうあるとはどういうことか、を考えるようにできている。その際は、議論を、経験できることに限定しない。経験できないこと(超越的なこと)も、必要ならば遠慮なく取り込んで行く。死についてもっとも突っ込んで、考えてきたのは宗教である。


宗教が死をきわめる

 メジャーな宗教は、ある時代ある地域の人びとをすべて巻き込み、それ以外の考え方を許さなかった。 
 いまはグローバルな時代。宗教の枠がゆるみ、混ざりはじめている。誰もが、自分の死を、新たな視点から考えて見られるようになった。
 
どの宗教も、独自の視点で死を考えている。死を考え、人生を考え、世界を考え、考え切っている。それが、選りどり見どりの状態だ。これを知らなければ、ほんとうにもったいない。
 死について考えるのは、死ぬためではない。よりよく生きるためだ。読者の皆さんが、そうやって人生の質を高めるお手伝いができればうれしい。


2章・一神教は、死をこう考える

《イスラム教を例に考えると》
・神は天地を、創造する(創造した)
・世界は、神(アッラー)の意思によって、存在する
・人間は、一人ひとり個性のある存在として、神に造られる
・復活は、二度目の創造である
・1神教では、人間は死んでも死なない、と考える
・自分が存在した事実に満足すれば、神の創造と復活を信じるのとほぼ同じだ


創世記はアッラーの預言

 旧約聖書はもともとユダヤの聖典だ。創世記など最初の五つの書物を、モーセ五書(トーラー)という。預言者モーセが伝えた律法である。イスラム教は、モーセも、神アッラーの預言者だと考える。創世記も、アッラーから人類へのメッセージなのだ。
 創世記によれば、神は六日で世界を創造した。
一日目に「光あれ」と言い、二日目に陸地と海を造り、…、六日目に動物や人間を造った。そして七日目に休んだ(安息日)。
 イスラム教は、旧約聖書の内容を、だいたいそのまま認める。クルアーンと違うところは、クルアーンを信じる。旧約聖書は不完全で、ところどころ間違っている、と考えるのである。
 創世記に関して言えば、その内容はほぼそのまま、クルアーンに引き継がれている。
(創造の前) 神がいる
        ⇩
(創造の後) 神がいる + 世界がある

(天地、山や河、植物や動物、人間が存在する)
世界は、神(アッラー)の意思によって、存在する


神の主権

 なぜ神は偉大で、人びとは神をおそれなければならないのか。
 それは神がこの世界を造ったからだ。
 造ったのなら、造られたものは、造った神のものである。
 モノを造れば、そのモノに対する所有権(支配権)がうまれる。
 神が世界を造ったのなら、世界は神のもの。神は世界を支配している。神は世界を壊してもよい。自分のモノなのだから。
 この世界に対する神の支配権を「神の主権」という。
 神の場合も、こうと決めたらそれで決まりで、誰にも覆されない。主権である。
 神は「全知全能」である。「全知」だから、なんでも知っている。知らないうちに、この世界で何かが起こったりしない。「全能」だから、なんでもできる。逆に言えば、ある出来事が起こらないなら、神はその出来事を起こそうと思っていないのだ。


とあるイスラム教の人の発言が印象的だったことを思い出した。
気が向いたときに親の手伝いを少しだけする、「働くとはどういうことか」を知らずに育った人で、仕事を覚えようとしないことに対して注意をされたときに「神さまが許しません」と言ったそう。

その話を聞いたときに、宗教はそういう解釈も可能にするのかと驚いた。
同じイスラム教の人でも家族のために、仲間のためにと助け合い努力する人もいる。
逆に目の前にいる仲間がつらい思いをしていても、自分が楽ならと知らんぷりの人もいる。

そんな姿を見ていると、宗教もどのように自分の生活に落とし込んでいくのか、どのように噛み砕いていくのかで、同じ宗教であっても解釈ががらりと変化していくのかもしれないなと思った。

「全能」だから、なんでもできる。
逆に言えば、ある出来事が起こらないなら、神はその出来事を起こそうと思っていないのだ。


世界の終わり

 神は、世界を造った。そして時が来れば、世界を壊す。これを、終末ヽヽという。
 日本の人びとは、自然がやがて存在しなくなる、という発想がない。中国の人びとも、その発想がない。どんな変動があっても、自然は変わらぬまま、という感覚がある。
 一神教で永遠に存在するのは、神だけである。
神以外のものは、すべて被造物で、永遠ではない。


 一神教でもユダヤ教だけは、実は、はっきりとした終末の考え方をもっていない。やがて神は、この世界に直接介入して、世界は正しくなるだろう。でもそのとき、世界が完全に壊れてしまう、とまでは考えない。
(創造の前)      神がいる
             ⇩
(創造の後、終末の前) 神がいる
             +
            世界がある
             ⇩
(終末の後)      神がいる
             +
            世界がなくなり、人間だけが存在する
人間だけが選ばれて、神に救い出される。これが、「救い」である。


永遠の命

 一神教では、生命は、神が人間に与えたと考える。それが取り上げられて死ぬのは、神の下さり罰である。
 言い換えるなら、人間は本来、死なないヽヽヽヽのである。
 神と人間は、もともと正しい関係だった。それが、人間の罪で、正しくなくなった。神はそれを、終末の機会に正しくする。そして人間に、永遠の命を与える。


最後の審判

 では誰が赦されて、神と一緒に生きるのか。
 それを決めるのが最後の審判である。
 最後の審判は、裁判である。神が人間を裁く。
一人ひとりを個別に裁く。人間は自分に責任を持てばよいので、ほかの誰かの責任は負わない。
 裁判と聞くと、嫌だなと思う日本人が多い。そう思ってはいけない。 

 一神教の考え方は、裁判はよいものだ、である。裁判は、正義を実現する。裁判は弱者を守る。ユダヤ法にも、イスラム法にも、弱者を保護しなさい、と明文で書いてある。人びとは法律や裁判を、信頼する。
 最後の審判は、よく考えると、人間を保護する仕組みだ。


誰もが復活する

 キリスト教とイスラム教に共通するのは、人間は例外なくみな、復活すると考えていることだ。
 復活。英語ではresurrection。死んだ人間が、新しい肉体を与えられ、もとの人間として生き返る。そんなことがあるわけない、と思うかもしれない。あるわけないことが起こるのが、神の奇蹟である。
 死んでも、生き返る。これを信じるのが、キリスト教、イスラム教だ。ハードルが高い考え方かもしれない。でもこれを信じる気持ちを理解しないと、一神教を理解したことにはならない。


映画 『怪物はささやく』

「怪物はささやく」を観ていたとき、コナーがやたら罰を受けたがることに違和感があった。
改めて考えると、罰を受けたがるのは赦されるためだったのかもしれないし、施しを受けることに飢えていたからともいえるのかもしれない。
日本人にはあまり馴染みのない感覚だけど、一神教的価値観だと捉えると妙に納得できた。


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