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コーカサス地方,グルジア、ジョージア、フェンネル、クリスマス
コーカサス
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ジョージア
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ジョージアは、嘗てソ連の構成国の一つであったが、1991年に独立を果たした。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。
中央部のゴリは、旧ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンの出身地でもある。
一方でロシア帝国とその後に成立したソ連の支配が長く続いたことから、独立後は様々な方面でロシアとの対立路線を取ることが多い。
1997年にはウクライナの呼びかけに応じてアゼルバイジャンやモルドバとともにGUAMを結成し、2005年にはウクライナと共に民主的選択共同体(英語版、ウクライナ語版)(CDC)を発足して加盟、2009年には独立国家共同体(CIS)を脱退した。
コルキス
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ギリシア神話の中では、アイエーテースやメーデイアの母国にして、アルゴナウタイの目的地で、また、アマゾーン族のいた土地もここだろうと言われている。
この古代の地域の場所については、現在のグルジア西部とされ、具体的には、サメグレロ(en:Samegrelo)、イメレティ(en:Imereti)、グリア(en:Guria)、 アジャリア、スヴァネティ、ラチャ(en:Racha)、アブハジア各地方、およびトルコのリゼ県とトラブゾン・アルトヴィン県の一部と言われている[6]。
コルキス人については、青銅器時代中期には既にカフカースに定住していたものと思われる[7]。
クルハ(コルカ)
紀元前13世紀、この地方に定住した部族の合併が進み、その結果としてコルキス王国が形成された。
アルゴナウタイの目的地、メデイアの故郷、特異な魔法の領土として、ギリシア神話の中で知られたその国力は、ウラルトゥ人にもQulha(またはKolkha, Kilkhi)として知られていた。
近隣国家との戦争が絶えず、紀元前750年代、コルキスはDiauehi(en:Diauehi)の一部を吸収合併したが、紀元前750年〜紀元前748年および紀元前744年〜紀元前742年の戦争で、いくつかの州(Ildemusaの王都を含む)をウラルトゥのサルドゥリス2世(Sarduris II)に奪われた。紀元前730年代〜紀元前720年代にかけては、キンメリアとスキタイの侵略を受け、王国は崩壊し、紀元前6世紀中頃にかけてアケメネス朝(ペルシア帝国)の支配下に入った。
北コルキスに住んでいた部族(Tibareni、Machelones、Macrones、MoschiとMarres)はペルシアの19番目の州に併合され、その間、彼らは「自発的に」服従して、ペルシア宮廷に100人の少女と100人の少年を5年ごとに送った。ペルシア帝国は繁栄した商業と他の地方との広域の経済的商業的繋がりを持っていて、その影響がコルキスの社会経済的発展を促進させた。
神話の中のコルキス
ギリシア神話によると、コルキスは英雄世界のミステリアスな外縁部にある伝説的な豊かな土地だった。
戦いの神アレースを祀った森の木に、アイエーテースは金羊毛を打ち付けていたが、それはイアーソーンとアルゴナウタイによって略奪された。
またコルキスは、プロメーテウスが人間に火を与えた罪により、山に鎖で縛られて、ハゲタカに肝臓をついばまれた場所でもあった。
アマゾーンもまたコルキスが起源のスキタイだと言われている。コルキス出身の神話の登場人物には、アイエーテース、メーデイア、アプシュルトス、カルキオペー(en:Chalciope)、キルケー、エイデュイア、パーシパエーがいる。
ケフィアと紅茶キノコ
第6話コーカサス地方の長寿食
カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス地方は、パキスタンのフンザ、南米エクアドルのビルカバンバと並んで世界の三大長寿国として有名です。コーカサス地方に限らず、長寿国の食生活は、発酵食品の摂取率が非常に高いことで知られています。海抜1300メートル以上に位置するコーカサス山脈の村々には、50万人以上の人が住んでいます。「コーカサス」という名前が広く知られるようになったのは1983年からWHO(世界保健機関)が実施した人口調査がきっかけでした。100歳以上の高齢者の人口比率が世界で最も高いことがわかり、コーカサス地方の伝統的な暮らしに注目が集まるようになったのです。
コーカサス地方の人々は、伝統的に「ケフィア」と呼ばれる、乳を発酵させた長寿食を食べてきました。ケフィアは、ヨーグルトとは違い、30種近くの多種類の乳酸菌と酵母を含んでおり、その有用性は様々な論文からも証明されています。ケフィアは、「ケフィア粒」と呼ぶ種菌を牛やヤギ、羊の乳に植えることで作られます。古くは、ヤギ皮の袋にミルクとケフィア粒を入れ、戸口の近くにぶら下げて作られていました。人々が戸口を通る際に袋と触れたり当たったりするために、中のミルクとケフィア粒がよく混ざり、一晩で発酵していくのです。
種菌であるケフィア粒のことを、コーカサス地方の人々は、「預言者の黍(きび)」と呼んでいます。
一説によると、1400年前マホメットが、病人を見つけては「神様からの贈り物であるこの霊薬から、ケフィアをつくって飲みなさい」と説いたと伝えられています。
また、共生細菌を多く含んだ発酵飲料として位置付けられ、日本では昭和40年代から50年代初頭にかけて大ブームとなった「紅茶キノコ」は、免疫力向上、腸内環境改善、殺菌作用、ダイエット、美肌効果などにより、近年再注目されていますが、これも、もともとコーカサス地方の人々が日常的に飲んでいるものでした。
執行草舟は、『生命の理念Ⅱ』(講談社エディトリアル刊)の中で、「いくら長寿食を食べても、決められた寿命を延ばすことは出来ないが、長寿食のような真の発酵食品を多く摂ることで、生命エネルギーの回転が高まり、健康のまま寿命を全う出来る。」と記しています。
ケフィア
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紅茶キノコ
人間 密儀の神殿
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巨人プロメテウスは、天界の火を盗み、せり科の植物フルーラ(大茴香)の茎のなかに入れて地上へ持ってきた。デーミウルゴスの権力に逆らうこの罪のため「人類の友」はコーカサス山の高い断崖で磔刑にされた。
茴香(フェンネル)
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フェンネルは人類史において、数千年ほど前のもっとも古い時代から栽培されているハーブの一つである[13][10]。
原産地の地中海沿岸では、古代ギリシャ人が利用し、人々は空腹を抑えるためにフェンネルを食べた[13]。古代ローマ人は野菜として食べ、ローマ軍の遠征によってヨーロッパ全土へと広まっていった[5]。
胃腸の働きを整え、視力をよくする力があるとされ、古代ローマの戦士たちにも携帯されていたといわれる[10]。その種子と芽については、961年のスペインの農耕記録にも残されており、1066年ノルマン征服以前のアングロサクソンの料理法と薬用法について言及がなされている[5]。ローマのパン職人は、パンに風味を加えるために、パン生地の下にフェンネルの葉を置いてパンを焼いた[11]。
中世ヨーロッパでは、村人が夏至祭の前夜に、災いや魔物から家を守る目的で、他のハーブと一緒に戸口に吊るしていたり[11]、虫を追い払うためにも用いられた[13]。
ピューリタン(清教徒)は「礼拝の種」と呼んで、長い礼拝の合間によくフェンネルの種子を噛んでおり、カトリック教徒も断食日の間の空腹を紛らわすために種子を食べた[11]。
1657年、植物学者のウィリアム・コールズが、著書 “Adam in Eden, or Nature's Paradaise”の中で、フェンネルでつくったジュースやスープを肥満患者に食事で与えると、その患者はやせて細くなると言及している[11]。 19世紀のアメリカの詩人ロングフェローは、「低い草木の上に塔のようにそびえる黄色い花をつけたフェンネル」と歌っている[5]。
薬効
昔から、腸内ガスによる膨満感、通風[要検証 – ノート]、さしこみ痛、胸やけ、膀胱炎、コリック(疝痛)、痙攣などの予防に使われてきている[11]。生薬としては、ウイキョウの果実が使われる[12]。同じセリ科のイノンドと同様に、健胃、消化促進、抗酸化、腸内ガスの排出(駆風)、抗膨満、去痰などの薬効が有るとされる[6][11][10]。
フェンネルの芳香は、女性ホルモン(エストロゲン)と同じ働きをするフィトエストロゲン(植物性エストロゲン)が豊富に含まれている[18][19]。北米更年期学会 (NAMS) の研究班の調査から、女性の更年期障害のほてり(ホットフラッシュ)や不眠、不安の症状の改善に効果が出ると判明している[20][21][22]。
中国薬物名として小茴香(しょうういきょう)と称する場合が有る[8]。日本列島では7月から9月にかけて果実を採取し、それを干した物が、日本で茴香(ういきょう)と称している生薬である[6]。和漢薬として用いられ、急性カタル、脚気、嘔吐、腹痛などの症状に処方される[15]。
漢方方剤の安中散(あんちゅうさん)に配合される生薬の1つとして知られ、また太田胃散(漢方+西洋薬の処方)、口中清涼剤の仁丹などにも使われており、年間100トンが製薬原料として消費される[6]。漢方方剤では、例えば安中散や丁香柿蒂湯に配合する[12]。
民間療法では、胃痛・腹痛に果実1日量2 gから3 g程度を、400 ml程度の水で煎じて、それを1日3回に分けて、温かい状態で服用する用法が知られている[8]。食べ過ぎ、飲み過ぎ、胃もたれ、消化不良、食欲増進、痰切り、膨満感などには、紅茶にウイキョウ数粒を入れて食間に飲んだり、そのまま充分に噛んで飲んでも良いとされる[23]。また口臭を消す効果も有し、イノンドと効用がよく似る[23]。
胃腸を温める作用も持つため、腹を冷やした際に起こした腹痛に良いとされるのに対して、胃に熱がある人には使用禁忌とされる[8]。種子を軽く煎じた液は、洗眼にも用いられる[13]。
果実の代わりに、生葉を細かく刻み、スープの具として多めに入れた物を飲む方法も考えられ、駆風、痰切り、咳止めに役立つと考えられている[23]。また、果実を収穫した後に残された茎葉は、イノンドと同様に浴湯料として使用できる[23]。
クリスマスとピューリタン
クリスマスは政治利用されたり、統治のために形を変えてきたようだ。
オンラインゲームのガチ勢とエンジョイ勢が頭に浮かんだ。
それをコントロールしようとする「運営」といった構図。
クリスマス
Christmas
イエス・キリストの降誕記念日。
クリスマスは英語でキリストChristのミサmassの意味。〈Xmas〉と書く場合のXは,ギリシア語のキリスト(クリストス)ΧΡΙΣΤΟΣの第1字を用いた書き方である。フランスではノエルNoël,イタリアではナターレNatale,ドイツではワイナハテンWeihnachtenという。また,12月25日を〈クリスマス・デー〉,その前夜を〈クリスマス・イブ〉,クリスマスから公現祭(1月6日)の前日(ときには1月13日または聖燭節=2月2日)までを〈降誕節Christmastide〉と呼んでいる。
起源
新約聖書にはマリアの処女懐胎に始まるキリストの誕生について記されている(《マタイによる福音書》1:18~25,《ルカによる福音書》1:26~38など)。しかし,その日がいつかということは語られていない。
このため,初期キリスト教徒は1月1日,1月6日,3月27日などにキリストの降誕を祝したが,教会としてクリスマスを祝うことはなかった。
3世紀の神学者オリゲネスはクリスマスを定めることは異教的であると非難している。
クリスマスが12月25日に固定され,本格的に祝われるようになるのは教皇ユリウス1世(在位337-352)のときであり,同世紀末にはキリスト教国全体でこの日にクリスマスを祝うようになった。長い議論の末,クリスマスが12月25日に固定されたのは初期教会の教父たちの体験と英知とによるものであった。
一般に,この時期に大きな祭りを行うことは古い時代の社会の慣習であった。なかでも揺籃期のキリスト教会が改宗を願っていたローマ人やゲルマン人の間には,冬至の祭が盛大に行われていた。納屋には収穫した穀物がたっぷりと積まれている。牧草の欠乏する冬をひかえて屠殺した家畜の肉も十分に貯蔵されている。1年のはげしい労働から解放され,何となく心豊かなこのとき,人々はやがて訪れる食糧不足のときを忘れ,飲みかつ食らう盛大な祭りを行った。生命の恵みを与える太陽の力を弱め,冬をもたらす自然の怒りをやわらげるために,人々は犠牲を捧げ,豊作・豊穣を祈って火をたいた。大方の草木の枯れるときになお緑を保つ常緑樹は永遠の生命の象徴として飾られた。ゲルマン人の冬至の祭ユールについて詳しいことはわからないが,ローマ人の冬至の祭については詳細な記録が文学・絵画・彫刻などに残っている。
12月25日はローマの冬至の当日であった。
その日は〈征服されることなき太陽の誕生日〉として,3~4世紀のローマに普及していたミトラス教の重要な祭日であった。12月17日から24日まではサトゥルナリアと呼ばれる農耕神サトゥルヌスの祭が行われていた。この期間,家々にはあかあかと火がともされ,常緑樹が飾られた。贈物が交換され,男たちは女の衣服や獣皮などをまとい,ふだん禁止されていたかけ事に興じた。主人と奴隷が席を交換するどんちゃん騒ぎも行われた。
このようなローマのサトゥルナリアとゲルマンのユールの祭の時期がイエスの降誕を祝うクリスマスとして選ばれた。教会は既存の祭日をできるかぎり利用することを考えていたからである。とくに,ミトラス教はキリスト教の強敵であった。
コンスタンティヌス1世はこれよりさき,類似点の多いミトラス教との習合を考え,321年には毎週の休日を〈太陽の日dies solis=sun day〉と呼ぶことに決めた。
クリスマスについても教会の同一の方針をみることができる。その上,当時,キリスト教徒の間にもイエスをこの世の光,太陽と考える習慣があった。ミラノ司教アンブロシウスは〈わが主イエスの降誕したこの聖なる日を“太陽の誕生日”と呼ぼう〉と述べている。クリスマスがいつごろから祝われたかは不明である。
初期の東方教会の人々は公現祭をキリスト受洗の日,その神性顕示の日として祝った。彼らはアリウス派の人々で,イエスの受洗を重視し,降誕には意味を認めない人々であった。降誕のときからイエスの神性を信じる正統派キリスト教徒は彼らを異端と考えた。
325年のニカエア公会議の異端宣告とほぼ同時期に,西方教会がクリスマスを12月25日に定めたのは異端との区別を明確にするためでもあったかもしれない。
ともかく,ローマでクリスマスが12月25日に祝われたのは336年以前であったことはほぼ確実である。この日が決定するまでにさまざまな意見が出された。たとえば,12月末,イエスの生まれたパレスティナ地方は雨季にあたり,羊飼いは野に出ていない。この時期に人口調査が行われた(《ルカによる福音書》2:1~3)証跡はない。学者たちは別の根拠からクリスマスを推定しようとしたが,いずれの見解も十分に説得的ではなかった。こうしてクリスマスは固定された。数世紀の間,異教の慣習はなお強く残り,教会はこれを懸念しながらも,キリスト教の教義と明確に矛盾しないかぎりこれを根絶することなく,同化・習合の方針をとった。以下,イギリスを例として,今日にいたるクリスマスの変遷を鳥瞰しよう。
ピューリタン革命時代
王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝った。しかし,謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し,暴飲暴食,ダンス,かけ事,乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃した。
すでに《諸悪の解剖》(1583)の著者P.スタッブズは劇場・演劇を誹謗し,仮面劇を装って盗み,売淫,殺人などがクリスマスほど横行する時期はないと記した。
17世紀のあるピューリタンは〈クリスマスは主イエスの降誕を祝う日ではなく,バッカス神の祭りである。異教徒はこれを見て,イエスは貪食な享楽主義者,大酒飲み,悪魔の友人と思うだろう〉と嘆いた。
穏健派はゆきすぎを是正するにとどめるつもりだった。長期議会もクリスマスに干渉する気はなかった。ところが,1644年,彼らはスコットランドの長老派教会の圧力によって態度決定を迫られたのである。長老派は1583年,スコットランドでクリスマスを完全に禁止した。その後王の命令によって一時復活したが,再びクリスマスを禁止した。議会派の指導者たちは長老派のクリスマス禁止の要求をイングランドで実施することを拒んだが,ついに屈服した。それは議会派の支配する地域でのみ効果を収めた。1647年,議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとした。このとき,これに反対する暴動が各地に起こり,ついに家庭でのクリスマスを認めざるをえなくなった。
王政復古(1660)以後
クリスマスは再び教会の三大祝日の一つとなり,人々はこれを自由に祝うことができるようになった。しかし,社会経済上の変化はかつて田舎の地主邸で繰り広げられた伝統的クリスマスの相貌を変え,素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れ,宗教心も薄れていくことになった。この変化はゆっくりと,かつ不均等に進行した。
クリスマス休日が制定され,大学,学校,裁判所,議会はクリスマスから公現祭までを休日とし,官公庁はこの期間の数日を,多忙な部署はその一部を休日とした。一部の人々は聖燭祭(2月2日)までをクリスマスと考えた。19世紀になると,産業革命の余波をうけ,労働条件はきわめて過酷となり,クリスマス休日は当日だけとなった。クリスマスは富裕な家庭では華やかに祝われたが,一般にはこれを祝う費用のない人々が増大し,クリスマスはいよいよ死滅するかに見えた。
ビクトリア時代
19世紀中葉,クリスマスが蘇生した。それはチャーチスト運動の時代であり,大英帝国の威光がもっとも拡大された時期であった。新しいクリスマスでは隣人愛,慈善が重視され,宗教心の復活による宗教的側面の補正が行われ,その上に古い時代のにぎやかな祭りの慣習が輝きを添えた。
とくに,クリスマスが子どもを中心とする家族の祭りとなったことがこの時代の特徴である。
クリスマス・ツリー,サンタ・クロース,クリスマス・カードが導入され,クリスマス・キャロルが復活し,クリスマス・プレゼントやクリスマス正餐(ディナー)が庶民の家庭に進出した。
今日のクリスマスはこのときから始まった。新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公とC.ディケンズである。
アルバート公はドイツからクリスマス・ツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスにもちこみ,ディケンズは《クリスマス・キャロル》をはじめいくつかの文学作品を公刊し,クリスマスの楽しさ,陽気さを伝え,同時に,クリスマスのあるべき姿,物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えた。
新しいクリスマスは急速に浸透し,空論家や反対論者も認めざるをえなくなった。非国教徒も子どもたちが友人仲間の楽しみの輪に入るのを抑止できなくなった。
彼らの礼拝堂の一部は会員が国教会に流れ始めたのを見てクリスマス礼拝を開始した。こうして非国教徒の態度も軟化し,イギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになった。こうした趨勢に応じて,短縮されていたクリスマス休日もボクシング・デーBoxing Day(クリスマスの翌日で,この日に使用人や郵便配達人などに祝儀の贈物を与える)まで延長されるようになった。それは銀行,官庁のみならず,19世紀末までには一般の商工業従事者にも拡大された。ここにみんなで祝う楽しいクリスマスが成立したのである。
日本
クリスマスの風習は明治以降に広まる。教会や在日外国人の手を離れ,初めて日本人によって祝われるのは,1875年ころ,原胤昭が設立した銀座の原女学校においてであったといわれる。明治10年代には丸善がクリスマス用品を輸入し,このころから大正期にかけて,クリスマスはしだいに一般家庭でも祝われるようになった。また,クリスマスの語は俳句の季題にもとり入れられ,正岡子規にも〈クリスマスの小き会堂のあはれなる〉の句がある。クリスマスの風習は日本人の生活に定着していくが,宗教的側面が軽んじられたり,商店の歳末売出しに利用される傾向も強まっていく。
[三好 洋子]
膠着語
膠着語(こうちゃくご、英: agglutinative language)は、言語類型論による自然言語[1]の分類のひとつ。膠着語に分類される言語は、ある単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を付着させることで、その単語の文の中での文法関係を示す特徴を持つ。ドイツの言語学者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって1836年に提唱された。
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