天武天皇
きのうから天武天皇にハマりだしました。
「天武天皇=板挟み天皇」というイメージになったので、なぜか親近感がわいています。
いろんな地域の神話をいろんな角度から聞いてると、最初の頃のような「うわ、きもっ!」や「あほくさ!」と思ってしまう気持ちも落ち着いて、冷静に受け取れるようになってくるなぁと思ったりします。
そして、「そもそも自分の知っている世界がすべてだと思いすぎでは?」と過去の自分につっこみたくなります。
最近なぜか、子どもの頃のことを思い出しました。
当時、母親に聞き返すとき「なに!…??」と強めな口調で返していたのですが、そのたびに『「なぁに?」でしょ!』と注意されていたなぁと…。
大人になると小さい「あ」の威力がよくわかりますね。
ほんとにこのnoteとは全く関係ない話ですが…笑
後半から出てくる天武天皇のくだりがおもしろかった!
日本神話とヒンドゥー教の話も ♪
牛と卵を神聖視しているのが、やっと少しだけ体感的にわかってきたような気がする。
神話も歴史や宗教と同じで強いものによって塗り替えられてきたが、それは悪意の力が働いてだと思っていたけれど、そうとも限らないのだということを初めて知った。
頂点であるが故に足元が不安定でやむにやまれぬ状態で…ということも大いにあるということ。
強さ故の弱さとでも言うべきか。
今までとは違った物事の見方を知ったので、さらにおもしろくなりそうだ。
天武天皇とは関係ないけど、ビッグダディ的人生観が圧巻でした。
6文字のなかに濁点が4つもはいってるのおもしろ!
よくわからないけど、なんか大切なことのような気がするし、おもしろそうな感じがする。
直線と0
⇒ 始まったら終わりが来る ⇒途切れる、分断、細切れ
螺旋と◯
⇒ 始まり、終わりが来る、そしてまた始まる ⇒ 循環
直線的思考、直線的体内感覚…
よくわかならいけど、とりあえず化けの皮脱いで"いい人"やめようと思った。
身体は入れ物であり、増幅器でもある?
身体はいつも知らせてくれているけど、その反応を忌むべきものとしてとらえ抑えたり排除しようとしてしまう。
自分のなかに善と悪がある?
自分が自分自身のなかで善のように扱っている(見えている)ものが実は自分のバランスを崩す元になっていて、悪とみなしているものが統合させ循環を促す働き(導き)だったりするのかも。
自分のなかで分断させているものは何か?
自分の何が統合を阻み、循環を遮断しているのか?
善も悪も同じ。
自分がいい人の役を演じるとき
近くには悪役を演じてくれる人がいる。
悪役のおかげでいい人の役ができている。
いい人は善なのか?
集団とは、それぞれの世界の集まりであり、
外の世界(現実と見えるもの)とは、
内側(自分の内面)が具現化したもの。
さて、何を具現化していこうか。
その前に、絡まった糸を解いて結び直す必要がある。
線から環に
学生の頃、エッグチェアを知り、実際に座ってみるとなんだか安心感を覚えたのだけれど、あれは身体的感覚だったのかな?と、今になって思う。