かっこにっぽんじん④ (読書記録)備忘録
一度、日本人を( )に入れてみる。
まとめ(7)
たまたまNetflixで観たアイヒマンの逮捕劇の話『オペレーション・フィナーレ』が、今回まとめたところにリンクしていて「責任とは?」「責任をとるとは?」について考えるきっかけとなったのだが、それよりも正義の危うさというか、正義という名の暴力が正当化されていく怖さみたいなものを強く感じた。
アイヒマンとはどんな人物なのか?
他律的行動、ルールと規則
ヴェーバーの予言
インド、イスラム、そして中国などの高い文明をもっていた地域があったにもかかわらず、なぜ西欧にだけ近代資本主義が成立したのか。ドイツ最強の社会学者であるマックス・ヴェーバーが、晩年、頭を抱えていたのはこの歴史的問題であった。
この問題に対する彼の答えは、プロテスタンティズムの宗教倫理の存在であった。それは、エートスとして西欧の人々に心理的禁欲をもたらし、そしてそれが行動として倹約や質素な生活として現れた。こうして、結果としてお金が蓄積され、資本主義が成立した。このことから、ヴェーバーは、プロテスタンティズムの倫理こそ「資本主義の精神」であったと説明した。
しかし、ヴェーバーは、その後の歴史の動きも見逃さなかった。やがて目的と手段が転倒し、結果であったお金儲けが目的となり、そのために質素・倹約行動が手段となっていったのである。
人々の行動は、ひたすら救済を信じて行動する価値合理的行為から、与えられた目的を効率的に達成することだけに関心をもつ目的合理的行動へと変化していった。そして、ヴェーバーはやがて、感情も魂もないひたすらルールと規則に従うような人間から構成される、鋼鉄の檻のような組織社会がやってくることを予言した。
他律的行動というのは、行動の原因が自分以外にある行動のことである。上司に言われたからとか、お金がほしかったのでとか、そういったルールだったのでとか、そういった制度があったのでとかなどを理由とする行動である。
それゆえ、そのような行動は刺激に対して反応する動物や、後ろから押されると倒れる物体と同じような行動となる。そこに、人間らしさはない。それは、本質的には物体や動物と同じ他律的行動なのである。
また、このような他律的行動には責任の概念が成立しない。その行動が失敗しても自分以外に原因があるので、上司に言われたのでやったとか、親に言われたのでやったとか、特定のルールや制度があったのでといって責任を常に回避できる。これが、アイヒマンだった。
気づかぬうちにアイヒマンになっていませんか?
「自分の考えとは違うけど、組織の中では『できません』と言えないことがたくさんある。組織の論理に従っているのです。この時代に限った話ではない。日本の戦争だってそうやって行われていますし、いま国会を通ろうとしている秘密保護法案だってそうでしょう。安倍政権の論理からすれば、これを通すのがいいとされる。あなたはアイヒマンではないですか、とこの映画は問いかけているのです」
組織リテラシー・バイブル(2)
◆興味深かったところ
1-1. 服従する組織人「アイヒマン」(P31)
2-3.第三者による罪と正義感(P38)
3. ネット社会の同質性と無共感性(P41)
◆ハッとした箇所
凡人こそ暴走する。一方で良心の呵責を和らげるために「正義」や「理念」、「価値」による補填、他方で思考停止、それらによって凡人の自己保身は意識的・無意識的に完遂されていくのである。
事例1-4:映画『千と千尋の神隠し』(2001年)では、経済システムを表したお化けの「カオナシ」が金銭欲「つけ込んで人々を自らの体内に飲み込む。カオナシはまさにマニピュレーターとして人々に言葉巧みに誘惑する。カエルたちで表現されている一般の弱い人たちは、金銭欲に囚われている。またカオナシが大きくなって自分たちを襲ってきても逃げ惑うことしかできない。
この映画では主人公の千尋が金銭欲を断ち切り、またカオナシに独りで立ち向かう姿を描き、弱い人の世の中でも強く生きるように説いている。
映画では金銭欲と物欲だけに焦点を当てているようだが、それより現代社会で千尋にもっとも必要とされるのは、組織の中で「傍観者」とならずに、自分の力で行動する人間になることである。
※マニピューレーター・・・操る者
他者のために正義を保とうとすると、より厳しい罰を選択する傾向があるのだ。
復讐による満足感と同じように、どうして第三者がコストをかけてまで「罰」するのかというと、やはり自分に利益があるからである。つまり罰を与えることで社会に「自分は信頼に足る人物である」と証明できる利益がある。
都合がよい「自分たちだけの平和な世界」をつくっている。私たちの記憶も取捨選択され、セレクディブ・メモリになっている。確証バイアスが強くなる中で、同じような考え方や気分の人を見つけると同調意識を高めて意気投合するのだ。