内受容感覚とこだわりという欲
相手の表情や感情の出し方に自分自身が揺さぶられてしまって、あたふたすることがある。
誰かの怒りは電気が走ったように感じたりもする。
気が散って自分の中にとどまることが難しいときがある。
自分の身体の中の感覚に気づきやすい人ほど、表情模倣が起こりやすく、他人の視線にも敏感であることを解明
―ヒトの社会性が身体に根差す可能性を示す新証拠―
この論文を読んでいて、「自分の身体の中の感覚に気づきやすい」という特徴があるのならば、それを自分にプラスの面として活かしていくことはできないだろうかと考えている。
ストレッチ
写真のデータ整理をしていて見つけたもの。
日課にしようと、子どもたちを巻き込んで朝晩このメニューをこなしている。
これのいいところはペースを自分たちで決めれるところと、アレンジできるところだ。
そのときの身体の具合を見て、別のストレッチを混ぜ込んでみたり少し動きを変えてみたりする。
すると身体の苦手なこと得意なこと、変化があったところなどが見えてきておもしろみがでてくる。
ペースが管理されていないために自由度が高い。そして、このストレッチの時間は自分の身体の中へ意識を向ける時間にもなっている。
(余談…壊し屋の息子がいるため、丈夫なケースに入れておくことにした。そのうえでテーブルの上に置いておくように伝えたものの、ソファの上に置いたままジャンプしたり、このケースを盾にして遊んでいたようで翌日にはこんな状態に。まさに諸行無常 笑)
何日かやれば覚えられるメニューであることが続けていくにはいいのかも、とやっていて思った。
癒しの手
お世話になってる整骨院の先生は相手を肯定的に受け止める人だ。
施術を受けながら「肯定している人の手は癒しの手だな」と毎回思う。
その手は喋りはしないが癒してくれたり元気づけたりしてくれる。
存在そのものが一緒にいて心地よかったりもするのだが、施術を受けながらわたしが勝手にひとりで試みているのが、肩甲骨の間あたりに施術中に実感できる手の温かさを身体に記憶させることだったりする。
まだ再現性は低いけれど、気持ちが弱っているときに身体からその記憶を引き出せたら、自ら安定していくのではないかと考えたりしている。
不安感が強いとき、身体が冷えていることが多い。
特に首の根本あたり(背中側)が冷えていて、そこを温めると落ち着いてきたりする。
身体は精神にも影響するし、精神は身体にも影響する。
その関係性がなんだか夫婦みたいでおもしろい。
身体という道具
読んでいて自分の欲深さがよくわかった。
わたしにはたくさんの手放せないこだわり、見栄や欲がある。
まずはどんなこだわりがあるのか書き出してみようと思う。
それから、手放せそうなものから少しずつでも手放していく。
その中からどうしても手放せないことを見つけたとき、そこに自分の苦しみが見えるんだろうな。
そんなことを考えた。
仏教では、身体はこころが使う道具に過ぎない、としています。道具に執着するのは愚かですが、道具を粗末にするのも間違っています。せっかく与えられた道具は、上手に使わなくてはいけません。では、私たちが身体という道具のプロになる秘訣は何でしょうか? それは「小欲」「知足」です。パーリ語で「アッピッチャター(appicchatā)」と「サントゥッティー(santuṭṭī)」と言います。小欲というとわかり難いのです。小欲の欲というのは、貪欲(greed)という意味ではなく、必要(needs)という意味になります。貪欲というと、少なくても悪いものです。必要というと、これには限度が成り立ちます。私たちはこれまで貪欲で生きてきました。今日からは必要ということを意識して生きてみてください。ものの見事に立派な人間に成長していきます。
例えば、喉が渇く。水が必要になる。必要な量だけ水を飲む。空腹を感じる。食べ物が必要になる。必要な量だけ食べる。寒くて身体が冷える。衣服が必要になる。必要な一枚を身に着ける。その程度にするのです。このメーカーの水でなくてはいけない。この店の食べ物でなくてはいけない。このブランドの服でなくてはいけない。そういうのは、すべて間違いです。無駄な努力なのです。理性ある人ならば、必要を感じて生きるのです。身体に水が必要だから水を飲む。座ることが必要になったら座る。立つことが必要だから立つのです。
貪欲は満たせないと知る人は、必要を理解するのです。必要は満たせるものです。その必要を最小限にして生きてみるのです。例えば美味しいものを食べたいといったら限度・リミットがありません。お腹に必要なだけ燃料を入れると理解すれば、必要な量・限度が明確になるのです。
立派な人間になりたいとはこれっぽっちも思わないけれど、道具を丁寧にあつかって欲深さは手放していきたい。
現代の寺子屋
散歩をしていて神社をみかけるとふらっと入ってみることがある。
けれど、お寺を見かけて気になってもなんとなく足を踏み入れにくくてあきらめてしまう。
この結界は自分で無意識的にはってしまってるものなのか。
寺子屋体験をしていたらお寺がとっても身近に感じそう。
この体験がきっかけとなって新たな体験を生み出していきそう。