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日記を詩に換える
すくなくとも私のやうな頼りない人間は、自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或ひは形態化する、といふ感が強い。尤も私は自分自身のことを決して直接描こうとしない男であるが、それにも拘らず、私は作品を書くことによつて、漸くそこに描かれた事実が私自身の生活として固定し、或ひは形態をとつたのだといふ感が強いのである。私にとつて、描かれなかつた私の毎日々々のホントの生活は、結局生活ではないのかも知れない。
私の最近心得た事のひとつに”文字は強いんだよ”がある。
このなんとも軟い思いつき程度に漠然と思っていたことを、坂口安吾がずばり書いていた。上がその引用である。下は、私のロマンチックな脅しである。
文章・文字というものは、何気なく扱っているようでいて、実はとてつもない魔力を持ったものなのだ。この落とし穴を覗き込むだけで、人は簡単に地獄に引き摺り込まれてしまうのだ。
文字に襲われたことがあります、という記事を書いた時よりかは、私のこの思いつきも随分まとまった考えに落ち着いていたが、坂口安吾はこれをはっきりと言っていた。「自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或ひは形態化する、といふ感が強い」。まさにこれである。
「私にとつて、描かれなかつた私の毎日々々のホントの生活は、結局生活ではないのかも知れない」というのもまさに的確である。かいた後では、かききれなかったのほほん生活の方があり得なく思えてしまうのだ。
”日記は地獄堕ち” ”感傷感情は文学だ”
雑多なメモ帳にはこのように思いつきの断片をかいていたが、どういうことを指すかといえば、つまり安吾の言葉である。
「作品を書くことによつて、漸くそこに描かれた事実が私自身の生活として固定」してしまう。
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