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# 46 悩める人間

自然に向き合う様々な方法があるのだが、科学的な思考は一般的であり、頼りにされている。今回は科学的思考について考えてみたい。これについて不透明感もある。

漸進法で考察する。

1。科学的手法は論理の三要素 (三角ロジック)に沿っている。以下に示す三つの要素からなる論法である。
「主張(結論)」
「根拠となる事実(証拠;証拠物件)」
「根拠となる事実から主張を演繹/帰納するための推論過程(論拠)」
一方で、カールポパーは反証可能性を科学的基本条件と見なし、科学と非科学とを分類する基準とした。反証可能性は、「ある言明が観察や実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと」とも説明される。
心理学者の鈴木光太郎によれば科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動だという。
2。しかし、多く人は、科学は絶対的真実に基づいていると考えているはず。
3。違う。コロナワクチン接種の副作用を取り上げて違うことを述べる。
アルファ株のスタデーで風味障害(嗅覚+味覚障害)の発生は6割程度と無視できない数字だった。6ヶ月以内に90%が回復したのだが、部分回復が30%程度、それなりに後遺症が残っているという結果である。
風味障害になり2年以上遷延化した患者が、ワクチン接種がその成因ではないかと訴えている。この患者が科学技術を駆使して出来たワクチンに疑惑の矛先を向けているのは反証可能性を示唆している。ワクチンを100%信じていたわけではないのであり、誰もが科学が絶対的真実に基づいているなんて考えていない。自分が外れくじを引いた心境なのであろう。
科学の恩恵を受けるにあたり、最大多数の最大幸福という功利主義をあらかじめ織り込む必要がある。一方で、これは医学の話であり、一般科学では失敗が個人の痛みに直結するとは限らない。失敗を恐れずに、修正してゆけば良いと言う事になる。
4。第2次世界大戦の最中、原爆の開発競争はドイツが先行していた。アインシュタインはルーズベルト大統領に原爆開発を急ぐことを促している。
勿論、日本でも開発は行われていたと言われている。
米国は先陣を切ったし、実験場から数ヶ月で実践に使われ、第2次世界大戦は終戦となった。
科学には知性も理性も織り込まれ、ついでに失敗も加わるるのだ。が、道徳は影も形もない。血も涙も無いのだ。
5。アカデミー賞が発表され、最多の13部門の候補となり注目された、原爆の開発を指揮した学者を題材にした「オッペンハイマー」は作品賞や監督賞など7部門を受賞した。これはまだ日本では上映されていない。
1945 年7 月16 日、ニューメキシコ州アラモゴルド実験場で爆発した時、計画の科学ディレクターだったロバート・オッペンハイマーは、インドの聖典「バガバッド・ギー ター」の中の言葉を思い起こし「我は死なり、世界の破壊者なり」と叫んだ。オッペンハイマーは後になって、さらに恐ろしい水素爆弾の 開発には反対することになる。しかし、米国は彼の意思を受け入れなかった。まさに、科学に前のめりした社会と言われるかも知れないが、これが現代社会なのだ。
6。そんな社会は良いはずが無い。オッペンハイマーはユダヤ人であった。
ナチスドイツに追いつけ、追い越せと言う気持ちだったのかも知れない。
彼の気持ちは理解できても、科学は改めて、血も涙もないと思う。更には、人間社会は受け入れ、もっと危険な水爆の開発競争に走った。
パスカルや佐久間象山は科学のリスクを悟っていたのだろう、人類の科学への自惚れをすでに予見していたのだ。相対的真実を基礎とする科学の無意味な所を感じていたのだ。彼らも原爆のようなものができるとは思っていなかったろうが、神の存在を信じ、絶対的な真実は有り、超自然的な真実は有る事を確信していたから生まれた予見であったと思われる。
7。絶対的真実とは何だろう。それは科学的な思考の停止ではないか?科学の論理の三要素 (三角ロジック)からすると、主張はある。しかし、証拠となる事実は不明。事実が無いのに結論だけが提示されている。
絶対的真実を聖人は自分から聖典にしたのではなくて、口伝えを弟子が文字にしたケースが多い。書き手が当事者でないのだから、その考えの源、事実を具体的に示すことは出来ない。これって、聖人の言うことを鵜呑みにした思考停止ではないか!
8。ここで冷静になると、我々が証拠とする事実は事実のほんの一部分であり、多くの事実を見逃しているか、見えないのかも知れない。東洋哲学的には煩悩が見える事実を覆い隠していると言う考えがあるのだが、そこに行き着くのでは。聖人に見えている事実があり、それから演繹して主張になっているとしたら、論理的であり、思考停止とは言えない。
9。だが、そこに反証可能性が無いのはおかしい。
10。これをどう考えるかだが、反証可能性が無いのではなくて、反証出来ないと読む事も出来そうだが。
11。その様な考えは魅力的であり、惹きつける。しかし、科学的思考に慣れている人には受け入れられないことでもある。
12。ソクラテスが無知の知と言ったのだが、自分が無知であると自覚するだけで、見えてくる事実、それを演繹すれば、絶対的な真実に到達できると言う事になる。東洋哲学では煩悩、西洋哲学では上から目線や知ったかぶり、これらを払拭すれば、新たに見えてくる事実があり、絶対的真実には誰もが到達できると言うことだ。とすると、絶対的真実が反証可能性を拒んでいるのではなくて、誰でも反駁出来るのだが、誰もしないと言う事につながる。

絶対的真実と相対的真実がお互い対立している様な不透明感は煩わしい。
だが、科学に前のめりになっている社会に多くの宗教や哲学が共生している。結論になるのだが、この相対と絶対は対極ではなく、二律背反でもない。人間社会に共存し混在していると言う事なのだ。そこに中庸を求めたり、線引きする必要もなさそうだ。そのまま両者を受け入れれば、不透明な霧は晴れて行く。科学者が神を信じることは不思議なことではない。

科学の話から広がり、長文に成り、分かりにくい話でした。




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