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#70 悩める人間

 すでに風化しつつあるニュースであるのだが、横井正一氏は終戦を知らされずにグアムの洞穴に28年潜んでいた。手先が器用で、植物から繊維を作り洋服まで仕立てたそうだ。
その生活を理解することは難しい。さぞかし不自由な思いをされたと思う。
一方で、彼には自由という言葉は必要だったのだろうか?なんて疑問が湧いてくる。
改めて、自由とはという話題を取り上げてみたい。

漸進法で進める。

1。彼に自由という言葉が必要なかったというのはどうかと思う。
連合軍の捕虜になる不安と、日々の生活の不安からの自由を願っていたはずだ。「島に眠る数限りない友軍の魂が私を助けてくれる」と信じて生きていたそうだ。言い換えれば、孤独からの解放と自由を願っていたのであろう。
2。自由と平等はお互い折り合いが悪く、二律背反と言われている。そんな関係が横井氏のひとりぼっちの8年間に存在したのであろうか?
他者のいない生活に自由も必要ないし、平等も意味をなさない。社会生活があって初めて、これらの言葉が意味をなすのであるはずだが。果たしてどうなのだろうか?
3。しかし、自由は人間に授けられた貴重な宝でもある。それは社会生活の中で輝くのだが、孤独な生活でも存在感がある。ザックリ言えば
1)なになにをする自由
2)なになにからの自由
3)欲望を満たす自由
4)なになにを所有する自由
などが浮かんで来る。
4。個人の視点だけではなくて、政治経済、政治哲学にも自由はしばしば登場する。前回話題にした、ジョン・ロールズは正義論を発表した。このリベラリズム(自由主義)は個人の自由に加えて、平等主義的な立場を貫き、政府による福祉政策を提案している。
5。しかし、このような福祉政策による政府の介入を良しとしない世論が、冷戦終結と共に現れる。個々人の自由は最大限認めるも、格差原理は認めない。一方では、自由な経済活動による格差が生じることは認めなくてはならないという。これはリバタリアリズム(自由至上主義)と呼ばれる。
6。新自由主義(ネオリベラリズム)はどの様な位置付けになるのだろうか?
7。新自由主義は経済学として理解するべきなのであろう。前記したものは哲学者の考えに基づいているのだが、これは経済学者の主張にそい、サッチャー首相やレーガン大統領によって実行に移された。19世紀の自由放任である古典的な経済学から、政府の市場介入を織り込むケインズ経済学へと移り、それに反発するハイエクや、フリードマンなどの市場原理主義が現れたのだが、これが新自由主義にあたる。
我々医師は国民の医療福祉に従事するのであり、新自由主義は格差社会を放任し弱者切り捨てにつながるとして、反対してきたのである。
8。個人的な視点からの自由は他者を考慮に入れるかどうかで見解が別れてしまう。
社会的な角度からは政治哲学の立場と経済学の立場で、見方が変わってゆく。
まとめると、他者や社会との関連では
自由は競争と密着している。
自由は個人の財産権に根付いている。
自由は平等と二律背反の関係性というか、緊張が古今東西続いている。

だが、自分だけの世界にも存在感があるのだ。
横井庄一さんの心を察するに、自由はなおさら孤独な心に重くこだましていたはずだ。

自由は人間の奥深い部分にある、マグマの様なものなのでしょう。

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