見出し画像

日本語教師アシスタント生活 in Australia 1993

1993年3月、私は民間の日本語教育機関主催のプログラムに参加し、オーストラリアのビクトリア州の公立学校に日本語教師アシスタントとして派遣されました。オーストラリア到着後1週間はメルボルンで集合研修及びガイダンスがあり、その後参加したボランティアアシスタント教師はそれぞれの派遣先へ旅立ってゆきました。

Birnsdaleの思い出

私は4月から12月までの間に州内の2校に派遣されました。
最初の派遣地は週の南東部の海の近くBairnsdaleという場所でした。
人口5万人の中規模の町。町の中心地には大きな教会があり、開拓時代を思わせる古い建物もちらほらありました。

この地でホストファミリーとなって迎え入れてくれたのはAston家の皆さん。ホストマザーが派遣先の学校の事務員さんをやっている縁でこちらにお世話になることになりました。

ホストマザーと言ってもちょっと年の離れたお姉さんくらいな感じ。見た目も若くてきれいな方でした。

旦那さんはニュージーランド人。大型トレーラーのオーナードライバーとして毎日朝早くから働いているとてもひょうきんなのに頼りがいのある父親でした。
それに小さなお嬢さん二人。

日常会話もおぼつかない自分を受け入れて、きっと見えないところではいろいろ気苦労をかけてしまったと思いますが、こちらを離れるときにいただいたお手紙に「一緒に過ごした時間は私たちにとってRIchな時間でした」としたためてくれたのを読んで思わずホロリと涙してしまったことを今でも覚えています。

Wonthaggiでの充実した時間

Birnsdaleの学校では日本語教師アシスタントとしての活動でしたが、2校目の派遣先、Wonthaggiという場所では、日本語だけでなくあらゆる授業にひっぱりだこでした。
体育では柔道のデモを披露したり、美術では折り紙をみんなで作ってみたり、家庭科ではすき焼きやお好み焼きをみんなで作って食べたり(かなり好評でした!!)。本当の意味で「日本」というものの一端を紹介できた気がしました。私自身もとても充実した楽しい時間を過ごすことができてうれしかったです。

一方でお世話になったホストファミリーのほうもあわただしい6ヵ月でした。ほぼ1ヶ月交代でホストファミリーが変りました。
最初は厄介者あつかいされているのかな?と思ったのですが、実は真逆で希望者がたくさんいた結果、最終的にこうなったとのことでした。

幸い自家用車を持っていたので引っ越しも気軽にできましたが、なんとも短期間でいろいろなことを経験できとても濃密な時間を過ごすことができ、こちらにとってもありがたい結果になりました。この話だけ書いても小説になるくらい、いろいろな家族とおもしろいエピソードがたくさんありました。

きっとここでの経験がその後の人生を大きく変えたと思います。
目に見える実質的な成果としては英語力がついたことが一番でしょうが、それ以上に大事だと思ったことは学校の生徒だけではなく、様々な家族とのふれあいのなかで文化の違いを超えたところで、何か信頼関係のようなものを構築できた経験は何事にも代えられない宝物になりました。

「叩けよさらば開かれん」を身をもって感じた時間でした。

以下もこの滞在中に経験したことです。

いいなと思ったら応援しよう!