マガジンのカバー画像

ハワイの神話と歴史をたどる

14
ハワイ諸島へ到達したポリネシア人が残した神話、ハワイ王国を築いた人々やハワイを訪れ、移り住んだ人々が残した著作(旅行記、小説、絵画、写真)を読む。
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

ペレ①ハワイの火山の女神

ハーブ・カワイヌイ・カーネは、ハワイと南太平洋を描く画家、歴史家、著述家。1987年にキラウエア火山のカルデラの西側火口縁に開館したトーマス・A・ジャガー・ミュージアム(現在は閉館)で、ハワイの火山伝説と科学的知識を統合した展示を行うために制作した資料をもとに、本書を出版した。 彼女の名前はペレ。ハワイの火山を支配している。人間には彼女に逆らう力はない。ペレからの知らせは最終決定を意味する。その姿は、長身の美しい娘だったり、腰の曲がった皺くちゃの老婆だったり。白い犬を連れて

ペレ②突然怒り、狂暴になる

彼らは海洋民族だった。石器で作り、編んだ縄で繋ぎあわせた航海用カヌーを造った。それを海図や計器なしで操り、ハワイ、ニュージーランド、イースター島の広大な三角地帯を大航海時代より前に探検し、移住した。彼らの食用植物、家畜、言語の起源をたどると東南アジアへ行きつく。 ☆ 原ポリネシア人は他民族に追われ、海へ逃れた。特徴的な土器の破片などの古代の遺物の発見で、彼らがメラネシアの北側を移動したことが明らかになった。彼らのうちいくつかの集団は中央・東ミクロネシアへ北上。東へ移動し続けた

ペレ③カメハメハを王にする

ポリネシアでは、相対するものが一対で創られた。ペレとカマプアアの愛憎関係は、その例だ。彼はハンサムなチーフに化身し、背中の豚の剛毛を隠すためにマントを羽織った。また巨大な八つ目の豚や様々な魚、植物に変身できた。カヒキコロという棍棒で槍をかわし、戦士たちを倒した。 ☆ しばしばトラブルを引き起こし、本能的な欲望のままに行動するカマプアアの男性優位主義の性格には、ポリネシア人の知る豚の性質が表れている。 彼の数多くの好色な冒険や激怒した夫たちとの争いの話に、昔は様々な脚色が施され

ペレ④石を持ち帰ると災難に見舞われる

1819年にカメハメハが亡くなると、ハワイアンの信仰は廃止された。40年間の外国人との接触によって、神々への信仰が揺らいだのだ。 信仰の放棄を拒んだチーフたちは首都カイルアに向けて行軍した。しかし政府軍が応戦し、チーフたちの軍は敗れ、神々はマスケット銃の前に倒された。 ☆ 数か月後、アメリカ人宣教師がやってきた。 古い信仰の断片は、地下に潜ったり、人々の習慣の中に保護されたりして、今日に残されている。 女性チーフのカピオラニは熱心なキリスト教改宗者で、新しい信仰の力を示すため

ペレ⑤知らせてくれる。守ってくれる。

ベティ・カーティスは1954年~1965年の平日、ハワイ島ヒロのラジオ局KIPAのインタビューと音楽の番組で、司会を務めていた。 1960年、彼女は友人2人を火山国立公園の観光に連れていった。ヴォルケーノハウスホテルに立ち寄り、食堂が開くまでロビーで友人とおしゃべりをしていた。 ☆ すると、首の後ろに、誰かに爪か針で突かれたかのような痛みを感じた。振り返ると、白いホロク(ハワイの伝統的ドレス)を着た年配のハワイアン女性が近づいてきた。 「あなたがカポホから放送したアナウンサー

クック船長とハワイ①1778年1月カウアイ島、2月ニイハウ島

キャプテン・クックは、太平洋探検の第3回航海で、1778年1月にカウアイ島、2月にニイハウ島、1779年1月にハワイイ島へ上陸。2月4日にハワイ島を出帆するが、突風で破損したマストを修理するためハワイ島に戻ったところ、島民とトラブルになり、殺されてしまう。 ジェームズ・クックは1728年、英国の農夫の次男として誕生。海にあこがれて18歳で石炭輸送船に乗り込み、航海術を学ぶ。27歳で王室海軍に志願。カナダでのフランス海軍との戦闘ではセント・ロレンス川の測量と海図制作で注目を集

クック船長とハワイ②1779年1月~2月ハワイ島

キャプテン・クックは、太平洋探検の第3回航海で、1778年1月にカウアイ島、2月にニイハウ島、1779年1月にハワイイ島へ上陸。2月4日にハワイ島を出帆するが、突風で破損したマストを修理するためハワイ島に戻ったところ、島民とトラブルになり、殺されてしまう。 1778年3月末~4月は北米西岸ヌートカで船の修理と交易を行い、5月~6月はアラスカ沿岸を航海し、ハドソン湾への水路がないことを確認。アリューシャン列島を経てベーリング海へ進み、8月には北極海へ入るが、氷山と霧に阻まれて

カメハメハ大王の生涯

1758年11月の嵐の夜、ハワイ島北西部のコハラで、カメハメハは生まれた。 父は、ハワイ島の王を継ぐカラニオプウの弟カラニクプアケオーウア。 王族が、強力なライバルの出現を予感したからなのか、赤子は、その夜のうちに実母から離され、母方の一族に匿われた。 カメハメハは、寂しい人という意味。 1778年11月、ジェームズ・クック艦隊は、ハワイ島沖でカラニオプウ王の公式訪問を受けた。 クックは、王に同行したカメハメハについて「野蛮な顔つきに見えたが、性格は良くユーモアのセンスを持

砂糖の世界史①ニューギニア⇒インド⇒イスラム⇒大西洋の島々⇒中南米

日本人がハワイに移民する契機となったサトウキビの栽培には、どのような歴史があるのだろう。川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書276)に導かれて、その歴史をたどってみた。 ☆ サトウキビの原産地はニューギニア島で、インドや東南アジアに広まっていった。砂糖は、イスラム教徒によってコーランとともに西へ旅をし、イスラム教徒の支配地域には、サトウキビの栽培と製糖の技術が伝えられ、8世紀はじめには地中海東部の島々でサトウキビの栽培が盛んになった。 ☆ サトウキビの栽培には、適度の雨量

砂糖の世界史②現在はブラジルとインドの生産量が多く、ハワイは生産停止

日本に初めて砂糖が伝わったのは中国の唐から。砂糖に本格的に親しむようになったのは戦国時代にポルトガル人が持ち込んだお菓子から。国産の砂糖が作られ始めたのは江戸時代の琉球(沖縄)や奄美大島で。薩摩藩は奄美大島を支配して砂糖を藩の専売とし、幕府に対抗できる財力を蓄えた。 ☆ 8代将軍徳川吉宗は18世紀初め、輸入に頼っていた砂糖の国産化をめざし、各藩にサトウキビの苗を渡して試植させた。砂糖製造法を記した中国の技術書にもとづき、四国、中国、近畿などの各藩はサトウキビを栽培し、砂糖生産

イザベラ・バードが訪れたルナリロ王のハワイ①ホノルルとハワイ島

ハワイ王国史におけるルナリロ王の在位期間は、わずか1年25日。だが、この期間にハワイの島々を訪れ、王に謁見した英国の女性旅行作家がいた。私は2018年に彼女が書いた本の日本語訳を購入したが、本棚に積んだままになっていた。今回、xでルナリロ王時代のハワイを紹介するために、彼女がハワイから英国の妹に送った手紙を抜粋する形で連載を始めた。手紙16で彼女は一旦ハワイ島を離れるので、ここまでを一区切りとし、要約を補うためにインターネット上で公開されている写真を添えた。 ルナリロ王(1

ジャック・ロンドンの旅①日本、北米横断、アラスカ、ロンドン、朝鮮、ハワイ

ハワイに関わった英米の作家として、ハーマン・メルヴィル、マーク・トウェイン、イザベラ・バード、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、サマセット・モームが挙げられる。このうち、村上春樹が強い影響を受けたジャック・ロンドンの生涯とハワイとの関わりについて、ラス・キングマン著・辻井栄滋訳『地球を駆けぬけたカリフォルニア作家 写真版ジャック・ロンドンの生涯』および南太平洋を舞台とするジャックの作品を要約する形で紹介したい。 ☆ 妊娠した妻に夫は中絶を要求したが、妻が

ハワイの誇り デューク・カハナモク 水泳と波乗りの継承と発展

ハワイを初めて訪れた時、ワイキキビーチにサーフボードを背に両手を広げて立つ銅像が建てられた英雄について、私は全く知らなかった。彼が活躍したオリンピックは、1912年ストックホルム、1920年アントワープ、1924年パリ、1932年ロサンゼルスの4回で、太平洋戦争の前だ。その彼が、今もハワイの人々に愛され続ける訳を知りたくて、ハワイ人にとっての水泳と波乗りの意義、デュークの生涯、その遺産を継承する取り組みを探ってみた。 1778~9年、クック船長が見た水泳と波乗り クック船

ドナルド・キーンとハワイ 戦時下における日系人、日本人捕虜との交流

ハワイに住む者として、ハワイの歴史を知りたいと思った。そのひとつの方法は、ハワイを訪れた人が書き残した書物を読むことだ。ドナルド・キーンがハワイと係わっていたことをどうやって知ったかは覚えていないが、私はドナルド・キーン(著)/角地幸男(翻訳)『ドナルド・キーン自伝 増補新版』(中公文庫、2019年)から、ハワイに関する部分を抜粋し、ウェブ上に公開されている写真などを添えた下記の原稿を2020年11月17日から28日までツイッターに連載した。自伝は2006年、「読売新聞」の土