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ホノルルの海と街を歩く

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2006年に初めてハワイを訪れた時の旅行記に始まり、2016年にハワイ在住の米国人と結ばれてワイキキで暮らすなかで出会った風景の数々を紹介。
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初めてのハワイ①2006年6月21日

私が初めてハワイを訪れたのは、2006年6月21日(水)~25日(日)のオアフ島。ドイツW杯の真っ最中の職場旅行で、ハワイゆきの気分になかなか切り替えられず、成田空港を20時30分に出発したノースウエスト航空機のなかで眠れずに、前日に買ったガイドブック2冊を読み終えたのだった。 ホノルル空港に到着したのは8時50分。外へ出ると、黒塗りのリンカーン・コンチネンタルを、黒人の運転手が手入れしているのを見かけて、ここはアメリカなのだと実感した。JTBのバスでアロハタワーのサービス

初めてのハワイ②2006年6月22日

2006年6月22日午前9時からドイツW杯日本VSブラジルをホテルで観戦。前半34分、玉田選手のシュートがゴール左上に突き刺さる。しかし、ブラジルは前半ロスタイムにロナウド選手のシュートで追いつくと、後半8分、14分、36分に追加点を決め、圧倒的な力の差を見せつけたのだった。 日本時間では午前4時に行われたこの試合を観戦した日本人は、今日一日をどんな思いで過ごすのかな。私はホテル前からトロリーバスに乗り、終点のワードウェアハウスまで風に吹かれていた。バスケットボールの試合で

初めてのハワイ③2006年6月23日

2006年6月23日午前9時、東海岸クアロア牧場へ。クアロアは古来、偉大な霊力(マナ)が漂う地として仰がれてきた。カメハメハ3世は1850年の土地私有法施行後、主治医でブレーンのジャッドに622エーカー(東京ドーム450個分)の土地を1300ドルで譲り、息子はハキプウとカアアヴァの峡谷、モコリイ島を購入。今もジャッド家が所有。 最初は、サトウキビの栽培を試みるが、干ばつで断念。1900年代に牧場ヘ転換。太平洋戦争で牧場は米軍に接収され、沿岸防御用の基地が作られた。戦後、土地

初めてのハワイ④2006年6月24日

ワイキキのにぎわいのピークは、夜9時頃。海岸沿いのカラカウア通りは、レストランでの食事を終え、夜の街に繰り出す人々で溢れる。音楽家、似顔絵師、大道芸人がパフォーマンスを繰り広げる。いくつかのレストランでは、ライヴバンドが演奏を始め、その音楽は店の外に流れていく。 最初の夜は22時頃、クヒオ通りのワイキキトレードセンターにあるナイトクラブ「ザンザバー」へ。ダンスフロアは、既に大柄な白人の女性たち、基地から来たG.I.の男性たちでいっぱい。黒人のMCがダンスフロアで踊りながらラ

ハワイの花①ハイビスカス

ハイビスカスは、ハワイを代表する花。しかし、そのほとんどは、ハワイ固有種に中国のブッソウゲを掛け合わせて作られた園芸品種で、その種類は5千を超えるそうだ。ハワイ固有種のうち、コキオケオケオとコキオウラは見ることができたが、州花のマオハウヘレは見たことがない。 「Kokiʻo keʻokeʻo/Hibiscus arnottianus」 オアフ島固有種。 ワイアナエ山脈とコオラウ山脈の湿潤な森に自生。 花弁は、白色か薄いピンク色で、 カウアイ種と比べると、全体的に細長い。 花

ハワイの花②プルメリア

ワイキキの街を歩いていると、5月下旬から良い香りが漂ってくる。見上げると、プルメリアの白い花が咲き誇っている。レイに用いられるのは香りの強いオブツサ種の花だが、白色が基本なので、華やかな演出をする場合には、ピンク、赤、白、黄など様々な色の細長い花弁を持つルブラ種の花を用いるそうだ。 「Singapore」 プルメリアの原産地はメキシコ、中央アメリカ、カリブ海。ハワイには1860年にドイツ人医師ウィリアム・ヒレブランドが持ち込んだそうです。ワイキキでよく見かける品種シンガポー

ハワイの花③シャワーツリー

夏になると、高さ10mの樹木からシャワーを降り注ぐように花の房を咲かせるシャワーツリー。1870年代にジャワ島・スマトラ島原産のピンクアンドホワイトシャワーツリーが、1880年代にインド原産のゴールデンシャワーツリーが、ハワイに導入された。1910年代には交配品種のレインボーシャワーツリーが誕生し、ホノルル市にも数多く植えられ、ハワイで最も人気のある街路樹のひとつになった。 「Kalākaua Avenue in June, where the flowers of the

ハワイの植物④ココヤシはポリネシア人が持ち込んだ

ハワイと言えば、ココヤシの木の向こうに海が広がるイメージがある。しかし、ココヤシは、ハワイ諸島に自生していたのではなく、ポリネシア人がカヌーに乗せて持ち込んだ植物という。ハワイに自生していたヤシは扇形の葉をしたロウル。ワイキキを歩いて、他にも様々な種類のヤシがあることに気づいた。 「Pritchardia/Loulu」 熱帯太平洋諸島に自生するヤシ。25種のうち19種はハワイ各島の固有種。ポリネシア人がココヤシを持ち込む前のハワイでは、海岸から山奥の森まで多くのロウルが自生

ハワイの植物⑤バニヤン・ツリーを持ち込んだ人々

★世界最大のバニヤン 「ぐねぐねと太い枝を空に伸ばし、その途中から縄のような気根をたくさんぶら下げる。気根は、地に届くと地中に根を張って太くなり、1本の新しい幹となって上部を支える。年数を経た木は、たくさんの幹を持つようになり、1本の木がまるで森のようになることもある。異様な樹形だ。 木陰は暗く、神秘的だ。何本もの幹が複雑に絡み合う茂みの奥に、何かが棲みついている感じがする。インドでは、ヒンディー語でバル、ベンガル語でボトと呼ばれ、知らない人はいない。クリシュナ神が子供の頃

ハワイの植物⑥バニヤン・ツリーを引き継いだ人々

★アイナハウ⇒キング通り⇒マジック・アイランド カイウラニ王女は1899年に23歳で亡くなり、アイナハウは1921年に焼失した。火事の時、バニヤンは防火帯の役割を果たし、近隣への延焼を防いだ。バニヤンは1939年にツシタラ通りに移植され、1949年に撤去された。クレッグホーンは、木の一部を挿し木としてホノルルの各地に植えた。 クレッグホーンは、アイナハウのバニヤンの挿し木のひとつを、ハワイ王国の植物苗床があったキング通りとケエアウモク通りの角に植えた。挿し木は大樹に育ったが

ハワイの植物⑦古代ポリネシア人がカヌーで持ち込んだ24種

ハワイ人は、どこから来たのか? ひとつの手掛かりは言語。 ハワイ語は、オーストロネシア語に属し、この言語を話す人々は、台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西はインド洋を越えてマダガスカル島へ、東は太平洋の島々に拡散し、日本へ来た人々もいたとか。 オーストロネシア語を話す人々は、ニューギニアの北のビスマルク諸島から、ラビタ土器と黒曜石を交易品として持って、カヌーの横に張り出した浮きをつけたアウトリガー・カヌーで東へ移動し、フィジー、トンガ、サモアへ約3000

ホノルルの潮騒を聴く①クリオウオウ~ワイキキ・ウォークウェイ

ホノルルの様々な海岸を訪れて、潮騒の音を聴いた。 そして、波の静かな海岸と波の荒い海岸があることに気づいた。 オアフ島の南側では、波は南東からやってくるようだ。 だから、火山の噴火などで作られた岬の東側の海岸の波は荒く、西側の海岸の波は驚くほど静かだ。 訪れた海岸を東から順に紹介する。 クリオウオウ・ビーチ 2023年6月30日、金曜日、午前11時。初めてクリオウオウの海に出たら、今までダイヤモンドヘッドの北側から見ていたココクレーターが左側に聳えていた。ココクレーターの右

ホノルルの潮騒を聴く②クヒオ・ビーチ~アラモアナ・ビーチ

約3kmにわたるワイキキ・ビーチの沖には、9つのサーフポイントがある。かつてサーフィンはハワイの王族のためのスポーツだった。 王国崩壊後の1905年6月にハワイを訪れた人気作家ジャック・ロンドンは、サーフィンの手ほどきを受け、その魅力を世界に発信。 さらに、1912年のストックホルム・オリンピックの100m自由形決勝で金メダルを獲得したデューク・カハナモクがサーフィンの魅力を世界に発信。 1917年の夏、17mを超える波が、ダイヤモンド・ヘッドの外側から、ホノルル港に向かって

ダイヤモンドヘッド三十六景

★ワイキキから見たダイヤモンドヘッド1 デューク・カハナモク・ラグーン 北斎がハワイに住んでいたら、ワイキキのあちこちから見たダイヤモンドヘッドを版画にしたのではないか。北斎のように写真を撮りたい。まずはデューク・カハナモク・ラグーンを散歩する家族連れを見守るダイヤモンドヘッド。2020年12月21日撮影。 2 デューク・カハナモク・ビーチ ココヤシの並木の写っている写真を見ると、ハワイかな?と思い、ダイヤモンドヘッドが写っていると、ワイキキだ!となる。ココヤシの並木のむ