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クッソ面倒くさい「〇〇が好きな自分が好き」に対する一つの解答『芸人人語/太田光』 #エッセイ #読書感想文
「へえ、そういうのが好きなんだ〜」
皆さんはこんなことを学生時代に言われた経験はあるだろうか。
私は学生時代、当時のTwitterでオススメの歌はあるか?みたいなことを名前だけ知ってる程度の同級生に聞かれ、神聖かまってちゃんの『ロックンロールは鳴り止まないっ』をオススメしたことがある。
するとその同級生は「ん〜まあ聴いてみるよ」的なリプライをよこし、数分後に「微妙だわ」的なことを書いてきた。なおこれはDMのやり取りではなくタイムライン上で起きたやり取りである。
大して仲良くもない奴から「あーお前サブカルが好きなのね、そっち系が好きなのね」的な烙印を押された気がして腹が立った。タイムライン上で恥をかかされた気がした。てめぇがオススメされたくてこっちに聞いてきたんじゃねぇのかよ。
彼がどんな音楽を好んでいたか知らないが、確かに洋楽にしてもインディーズの邦ロックにしてもバンド音楽に詳しい奴ではあった。だからめちゃくちゃ腹が立った反面で、「お前はサブカル音楽が好きな自分が好きなだけで、音楽が好きなわけではない」と言われた気がして、酷く落ち込んだ。
見透かされた気がした。
『芸人人語』は爆笑問題の太田光によるエッセイ集である。すでに3冊が出ているがここでは1冊目を取り上げる。
時事ネタで毒舌を吐く漫才を貫く太田光が「人を傷つけない笑い」に対してどう考えているのか等の「芸人論」「お笑い論」も面白いが、新型コロナウイルスが徐々に日常を破壊し始めた頃の雰囲気がありありと書かれているのも(不適切な言い方かもしれないが)面白い。
私は時折、この1冊目に収録されている『存在』という章を読み返す。川崎・登戸で起きた陰惨な事件について触れ、「自分の命が大切に思えないと他人の命も大切に思えなくなる」という持論を展開している。この章に書かれていることはおおむね当時『サンジャポ』で発言したことと近いものだ。
凶悪犯に寄り添うような発言として賛否両論を呼び、のちに神田伯山に「ピカソ芸」と揶揄されることになる。
私がこの章を読み返す理由は「何かを好きになる」とはどういうことかについて筆者の持論が展開していく部分に勇気づけられるからだ。
ある時から「今の自分は本当の自分なのか?」というような疑問を抱くようになった。自分は嘘くさい。「俺は本当にチャップリンの作品が好きなのか?」と。本当はチャップリンが世界から称賛される偉大な存在だから、そこに憧れて作品を良いと思っているだけで、そうでなければ感動などしていないのではないか?私は「感動しているふり」「好きなふり」をしているだけではないか?という自分に対する疑いが消えなくなった。
俗にサブカルと呼ばれるものを好きになってしまった人は一度は抱いたことがある疑問ではないだろうか。あるいは「好きな芸人は?」「好きなミュージシャンは?」と聞かれて即答できない人はおおむね思い当たる節があるのではなかろうか。その質問にどう答えるかで、相手に品定めされる感覚の気持ち悪さに身に覚えはないだろうか。
私は自分の全てが嘘で、自分をニセモノだと思うようになった。色や味、感動が失われた世界で私は更に自分を嫌い、そのうち「嫌う」という強い感情もなくなっていった。
今まで好きと思っていたものに、触れる気がしなくなり、自分の住む世界がそれほど面白いと思えなくなった。毎日生きていることに大した価値を感じない。それでも腹は減るから味のしない物を食べ、ただ排泄を繰り返す。
そんな無感動な日々(ウーチャカから気抜け連中と呼ばれかねない生活)を送る太田光はピカソ展で『泣く女』に感動する。このあたりはどうせYouTubeとかに当時のサンジャポの映像や音源があるだろうからそれを探していただくとして。
私が導き出した答えは簡単なことだ。
「自分は、チャップリンの立場も好きだが、作品も好きだ」
こんな他愛もない、ごく当たり前でつまらない考えが浮かんだことで私の気持は軽くなった。自分は清潔で純粋な人間ではない。嫌らしく、あざとい人間だ。しかし同時に作品自体を楽しんでいる自分も確かにいる。汚れた所も、無垢な所も同時に自分の中にある。自分は実にありふれた凡人なのだ。
〈中略〉
言い換えると、あの時私は自分の中の「自己愛」を認めたのだと思う。それまでは、純粋に作品を愛するのではなく、「作品を愛する自分を愛している」状態を許せなかった。そんな自分を醜いと思っていたのだ。
〈中略〉
何かを好きになるということは、実は自分を好きになるということだ。例えば文学作品に感動した時、人は作品を好きになると同時にその作品を感動出来た自分を好きになる。作品に感動する感性を持つ自分をまだ捨てたもんじゃない、と思える。作品を好きになる前よりも、好きになった後の自分が好きになる。
いかがだろうか。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で散々引用されていた『花束みたいな恋をした』の麦くん状態になっている全ての人々にこの章を強くオススメしたい。
パズドラしかやる気がしねえ毎日を楽しんでいるわけがなく、かといってパズドラに感動しているわけでもなく、ただ感性が死んでいく感覚に焦燥感を覚えたことがある人は少なくないはず。
何か一つでいい。たった一つでいい。
心から好きだと思えるものが見つかったら「好きなものがある私ってサイコーじゃん?」ってバイブスをあげていこう。
「自分LOVE」な人に拒否反応を抱くのは分かる。しかし「自分LOVE」は決して恥ずかしいことではない。それでこそ凡人である。
自己愛がこじれてきたらこの章を読み返す。「僕、爆笑問題が好きなんですよね」って言うと「斜め上だねえ〜」なんて反応をされそうだが、この章を思い出せばそんな世間の反応なんかへっちゃらだ。
「〇〇が好きな自分が好き」でいいじゃん。好きなものを増やせば、もっと自分が好きになれる。それっておかしなことかしら。