気まずいデュエット大会『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』【映画感想】
『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』をIMAXレーザーGTで見た(以下、面倒なので『ジョーカー2』と書きます)。
アーサー(ホアキン・フェニックス)はアーカムの病院にて"治療"を受けていた。前作『ジョーカー』で犯した犯罪に対する裁判の日が近づく中、「アーサーに責任能力はあったのか」が争点となり、あらゆる意味でまたしても世間を騒がせている。そんな中同じ病院で出会ったリー(レディー・ガガ)と惹かれ合う。
シリーズ続編の宿命
アメコミ映画史/DC原作の映画史にとって、そして何より悪のカリスマ「ジョーカー」の描き方の歴史にとって記念碑的な作品といえるトッド・フィリップス監督版の『ジョーカー(2019)』。あの作品の続編を作るのは相当なハードルだと作り手だって百も承知のこの企画。
シリーズの続編といえば大雑把に2種類のアプローチがある。
前作の世界観を拡張し大風呂敷を広げるタイプ(例『エイリアン2』)と、前作と同じ世界観を踏襲しつつ前作に批評的な視点を入れ前作の清算をするタイプ(例『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』)の2つだ。
後述するが『ジョーカー2』は後者のアプローチを取らざるを得なかったはずだ。
似たような事情になった作品は『ジョーカー2』以外にも今年は存在した。
『マッドマックス フュリオサ』は前作の偉大さゆえに「物語のその後を描く」のではなく前日譚を選んだ。『フュリオサ』は『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』を補強するという点では成功している。しかし『怒りのデス・ロード』のようにセリフを少なくし驚愕のアクションシーンのつるべ打ちにするのではなく、「語り」を重視した作風になっており、アクションを物足りなく思った人も多いはずだ。
『フュリオサ』はまずフュリオサという人物に深みを与えるのが大前提の企画だ。ただし『怒りのデス・ロード』がもたらしたアクションやデザインの衝撃を超えるのは到底無理と判断し、上記のアプローチをとらざるを得なかったという事情もあったと思う(それでも一部のアクションシーンは『怒りのデス・ロード』をも超えていたとおもうけど)。
やりたいことがわかりすぎた問題
さてこの『ジョーカー2』だが、私は見ている途中から「やりたいことがわかりすぎる……」と思った。
まず先の理論で行くと、『ジョーカー2』を前作『ジョーカー(2019)』の大風呂敷を広げる方向にするのは不可能と判断したはずだ。
ワシントンの議会議事堂襲撃事件、日本では京王線刺傷事件など、「悪」が感染し、大衆や個人が「ジョーカーのようなもの」に扇動されて凶行に及ぶ事件が現実に起きてしまった。
トランプ氏再当選も有り得るこの状況で、『ジョーカー(2019)』のような悪のカリスマの成長・拡張を描くことはまず無理だっただろうと想像する。
この映画が作られた意図や狙いは、明らかに『ジョーカー』に憧れて犯罪を美化する人たちに向けて「いや別にコイツはコミックのキャラクターなんだから感化されちゃダメだよ?」と冷や水を浴びせることであり、それが序盤から終盤まで「わかりすぎた」というのが良くも悪くも私の感想だ。
気まずい感じがするのは狙いなの?
ゆえにアーサーが「自分はアーサーなのか」「自分はジョーカーなのか」のアイデンティティについて自問自答する作品になるのは必然だったといえる。そして自問自答は脳内で起こること。彼の妄想、脳内ビジョンで満たされるのもまた必然で、結果前作とは異なる語り口(ミュージカル調)というアプローチになっている。
そして繰り返しになるが本作は「ジョーカーに感化されるな」という警告、『ジョーカー(2019)』が現実世界にもたらした負の影響への落とし前をつけることが大目的である。
私はアーサーとリーが妄想の世界でミュージカルのようなショーをしているシーンを見ているとき、「スナックでママといい感じでデュエットしてるけど、ママはビジネスでやってるだけなんだから気づいて、目を覚まして!オジサン!」といたたまれない気持ちになる、共感性羞恥に似た「気まずさ」で満たされていた。
ミュージカルに明るくない私だが、たぶん『ウエスト・サイド・ストーリー』とか『イン・ザ・ハイツ』とかを見る限り、ミュージカルっていうより「気まずいデュエット大会」だったと思う。そこを指してこの映画を「何これ?」って思う人もいるかもしれない。ただ私はこの痛々しさも含めて「ジョーカーってダサくね?」という冷や水効果に繋がっていたと思う。どこまでが製作陣の狙いか知らんけど。
意外に大きいと思う本作の功績
そんなわけで好き嫌いは分かれやすいのはわかる。事前に他人のレビューなどは見ないで映画を見て、他人のレビューをインプットしないうちに自分の感想をまとめている。
ゆえに世間が何に対して「賛否両論」なのかわからないが、あの結末も含めて『ジョーカー(2019)』の続編を作るとしたらこうする以外になかったはずだ。
私の結論としては「そもそも続編を作る必要あった?この企画って蛇足じゃね?という疑問を一旦置いておくならば、続編を作るとしたらこういう語り口・結末を用意するしかなく、そこには誠実に取り組んだ続編」と思う。
ただし意外な副産物があったと思うのは、レディー・ガガが新たなハーレイ・クイン像を作った所である。
ハーレイ・クインといえばジョーカーにゾッコンのキャラクターであり、デビッド・エアー版の『スーサイド・スクワッド』でマーゴット・ロビーが演じ大ブレイク。このときはまだジョーカーへの一途な想いが描かれていた(ような気がする)。
しかしその後、映画プロデューサーとしても優秀なマーゴット・ロビーによって「ハーレイ・クイン」は「ジョーカーの女」ではなく、ジョーカーなど関係なく狂気じみた魅力をもつキャラクターとして覚醒した。
今回のレディー・ガガが演じるリー(事実上のハーレイ・クイン)は、いかにもマンガ的なバックグラウンドを排し『ジョーカー(2019)』における「ジョーカー」のような謎めいた人物(何が本当で何が嘘なのかよくわからない)になっている。
マーゴット・ロビー演じるキラキラした狂カワイイ「ハーレイ・クイン」とは真反対の、泥臭くて生々しい「ハーレイ・クイン」像を作ったのは予期せぬ副産物だったのではないだろうか。ハーレイ・クインもまた、ジョーカーと同じく偶像に過ぎないと示している気がした。
まあ、やっぱりこの続編作る必要あった?という前提を置いておくなら、私はやれることはやったぞ、という作り手の汗がコッテリ滲んでいる映画だったと思う。
※あとがき※
上記を書いてからムービーウォッチメンを聴きました。紹介されるリスナーメールは本当に面白いですね。特にやっぱりさすがレインウォッチャーさん、理路整然!
ただ私も宇多丸さんと同じ意見で「負け戦」「大酷評」「大コケ」があらかじめわかっていながらコレを出してきたことに関してある意味作り手の覚悟を感じて嫌いになれない作品でした。うーん、、、まあたしかに面白い映画とは言えないけど(笑)
『ジョーカー(2019)』が凄い作品だったし続編を作りづらい作品なんだから「この続編つくる意味あった?」というモヤモヤはあるんだが、「でもやるんだよ!」とハラを括った心意気を買おう!と今は思っています。
あと私の感想でレディー・ガガの「ハーレイ・クイン」像が面白いと書きましたが、これを宇多丸さんが「逆めまい」と言ったのに「そうそう!それそれ!」と膝を打ちました!あと『アラビアのロレンス』を引き合いに出すのもさすがです。
いやー、映画も映画評も本当に面白いものですね(急に雑な締め方)。