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『きみの色』は命が宿る瞬間を丁寧に描いた美しいアニメでした【映画感想】

『きみの色』を見た。監督・山田尚子、脚本・吉田玲子の黄金タッグによる長編アニメ映画である。

ミッションスクールに通う日暮トツ子(鈴川紗由)は、他人の印象を「色」で捉えるある種の共感覚の持ち主である。同じ学校に通う作永きみ(髙石あかり)の放つ「色」に密かに憧れていたトツ子は、きみが退学したことを耳にし、わずかな情報を頼りにきみに会いに行く。トツ子は古書店できみと再会し、そしてその場に居合わせた影平ルイ(木戸大聖)と3人でバンドを結成することになる。


アニメーション=生命なきものに命を吹き込む

アニメーション(animation)はラテン語のアニマ(anima)が語源である。animaは霊魂を意味する言葉であり、「生命のないものに生命を吹き込む」という意味でanimationという言葉は生まれた(※1)。

ただの1コマに過ぎない絵が動画として躍動するとき、そのただの1コマに命が宿る。『かぐや姫の物語』以降『スパイダーマン スパイダーバース』『THE FIRST SLAM DUNK』など、「絵」というより「線」にまで命を宿そうとする潮流が生まれている(気がする)。そんなハイレベルな話以前に、子どものころに教科書の隅に落書きしたパラパラ漫画で「やった!動いてるじゃん!」という驚嘆がアニメーションの根源的な感動なのだ。

本作『きみの色』は、そんな「無」に生命が宿る瞬間の演出が抜群に素晴らしく、命がイキイキと躍動するときの祝祭感に満ちた良作である。


「無」から命が宿る瞬間の美しさ

トツ子は「色」を見て他人の美しさや温かさを感じる一方、自分自身の持つ「色」が理解できていない。そんな「無色」の彼女が自分自身の「色」を見つける瞬間のダンスや音楽の演出はとても繊細であり、それでいて力強い。「無色」だった彼女が自分の「色」を知る、つまり「色」という命が彼女の手の平に宿る瞬間は本作の白眉ともいえる美しいシーンになっている。

このように「無から命が宿る祝祭感」というアニメーション本来の快感をストーリー・キャラクター・演出に落とし込んでいるのはおそらく意図的だ。例えばルイが演奏するするテルミンは何も無い空間に手をかざすことで音が生まれる不思議な楽器である。「命が宿る瞬間」の多幸感を体感させるための楽器のチョイスだったのではないかと推察する。

そもそも高校生である彼らは、不確定な未来に勇気を出して次のステップを歩まねばならない。未来が幸せである保証はどこにも「無い」。しかし親(ないし保護者や友人)に自分の隠し事や内に秘めた思いを打ち明け、新たな旅立ちを決意する展開は、現在高校生である観客にも、かつて若者だった観客にも身に覚えのある話である。

そんな彼らに共感することで、この世には実在しない、フィクションの登場人物たちにも「命が宿る」のだ。


不勉強でテクニカルなことについて細かく言及できないが、本作のキーワードである「色」をデザインした「色彩担当」のスタッフの手腕は確実に素晴らしい。また牛尾憲輔氏が手掛ける音楽も絶妙で、大げさな主張をするでもないがこの物語に優しく寄り添う、さりげなく併走する楽曲が光る。

なにより、ストーリーやキャラクター設定を巧みに「アニメーションがもつ根源的な祝祭感」へと結びつけた山田尚子監督がやっぱり一番凄いということになってしまうのだろうか。本作を見た後、慌てて未見だった『映画 聲の形』を見たが、「聞こえないはずのものが聞こえる」「見えないはずのもが見える」といったアニメでしか成立しないマジックを信じている作家なのだろうと2つの作品から共通して感じた。

物語の骨格は確かに既視感があるかもしれない。しかし必ずどこかに「あっ!いま何かとんでもないものを見た!」という瞬間がある映画である。その瞬間はおそらく「無から命が宿った」シーンなので、ぜひそこに注目して見ていただきたい。

(※1)参考サイト

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