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帰郷物語 part1

島根の高校を卒業後、大学は静岡、社会人スタートは東京。
田舎生まれの僕は、広い世界に憧れ、故郷を捨て上京した。
結局故郷へUターンしたが、その当時はもう帰ってくることはないだろうと思っていた。
東京で成功することを夢見る大勢の中の一人だった。
約十年東京で生活をした。
二十代、三十代の前半を東京で過ごし、社会を世の中を学んだ。
叶った夢、叶わなかった夢、やれたこと、やれなかったこと、理想と現実の狭間で苦しんだ十年間。振り返ると青春時代そのもの。
そんな僕が生まれ故郷に帰るに至る経緯は、やはり色々あった。
東京、夢、お金、将来、家族、仕事・・・大切にしたいものはたくさんある。
東京を去る間際は特に、何を残し、何を捨てるのか、悩みに悩んだ。
全部自分で決めたのかと言われれば、成り行きというものもあった気がする。

僕の帰郷物語、ちょっとカッコ悪いけど、僕は二度目でやっと着地した。
一度目はUターン失敗。やっぱり、島根は合わない、と東京へ舞い戻った。

一度目の帰郷、それは喉の不調、「声帯ポリープ」の手術後の静養という名目だった。
当時東京でボイストレーナーとして働いていた。それまで、アルバイトや音楽とは関係ない仕事で食い繋いでいた自分にとって音楽関係の仕事に就けたことが、嬉しく、当時ひとつの結果を残せたかなと思っていた。
そんなこんなで、張り切りすぎたのか、指導をする上で喉を酷使。自分の声を潰してしまった。当時ライブハウスで自身の音楽活動も並行して行っていたが、ステージで気持ちよく歌える状況ではなかった。
そして、耳鼻科に行くと「声帯ポリープ」手術をしないと、声は戻らないとの診断。
手術をした後、2,3か月は声帯を守り、無理させない方が良いと言われた。本気で歌ったり、大きな声は控えるべきだと。
ボイストレーナーにすぐ戻ると術後の回復に影響が出るかも知れない・・・。

そこで、しばらく島根で実家で静養する道を選んだ。
この時、静養といいながら、気持ちの上では、帰郷、東京を去るという決意をしていたと思う。
しかし、しかし島根でやっていけるか?仕事は?音楽は?
不安も残る・・・そこで保険を用意。
当時のボイストレーナーをしていた、教室のオーナーさん宅に家具、家財を置かせてもらいある意味、お試しUターンをした。
Uターンするとすぐに、母から「海外旅行でもしてきたら?」と仰天の提案!
確かにそれまで、そんな余裕は無かったし、海外に行ったことも無い、飛行機に乗ったこともない、そんな人生を送ってきた。
これはいいきっかけだ!とちょっと長めの海外旅行計画を立てた。
仕事はとりあえず、そのとき母が務めていた電子部品の組み立て工場でアルバイト。
当時携帯電話がどんどん普及する世の中。三交代で工場は回っていた。
ぼくは夕方から深夜までのシフトで勤務。声を出す必要もないし、ひたすら部品を組み立てた。おそらくUターンした日の翌々日にはその仕事がスタート。
息つく暇もなく、忙しくなった。週5でおそらく二か月くらい働いたが、実家暮らしなので出費は少ない、旅行の費用はすぐに貯まった。
そしてその年の年末には初海外、行った先はオランダ。
ホームステイが出来る家があったので約二週間お世話になった。
せっかく行くのなら英語もちょっとマスターしようと任天堂DSの「英語漬け」というソフトで英語も勉強。元々英語は好きだったから、行った先でも最低限のコミュニケーションは出来た。本場のクリスマスを体験し、ヨーロッパの街並みを歩き、暮らしや文化を味わった。
世界は広い!道はいくらでもある!行き詰ってた人生に一筋の光が差した気がした!
これは母が僕に感じて欲しかった感覚だったのだろう。
異国で夢のような時間を体験し、島根に戻った。
さぁ、これからどうしよう・・・仕事。
その時たまたま求人折り込みに「コールセンタースタッフ」の募集があった。
コールセンターの仕事は東京時代、おそらく延べ3年くらいやった慣れた業界。
しかも在籍したことのある会社の島根支店だった。
東京では音楽や演劇などをやっている人がシフトの自由が利きやすいのでよくやるアルバイトだった。カスタマーセンターで電話を受けたり、勧誘やお知らせの電話をかけたり。一通り経験済みだった。
よし!コールセンターだ!と決めて応募。受かって入社することになった。
初めの一か月はじっくりと研修。その業界のことや、予想される問い合わせ内容を学ぶ。そして、現場に出て電話に出る。お客様対応をする。
そこまでは、良かった。
しかし、仕事を進めていくうえで大きな問題が。
コールセンター自体がチームで依頼元の会社に出向。依頼元の会社もスタッフを雇っている。コールセンターはそのスタッフさんたちを教育したり、テレマーケティングという観点でコンサルのようなことをしたり、そういう立ち位置だった。
コールセンターのスタッフ、依頼元の会社のスタッフ、立場の違うスタッフが一緒になって仕事を進めていく。ここの間の関係性が難しかった。古くからやっているスタッフさんを新しく入ったコールセンターのスタッフが指導するようなスタイル、これがやっぱり微妙だ。
元々やりたいと思って始めた仕事ではなかったし、依頼元の会社に一日いるのが息が詰まる。
「東京は良かったな~」そんな言葉が頻繁に頭をよぎるようになった。
やっぱり島根は合わないのか・・・そんな風に考えるようになった。
東京でも、もちろんつらい仕事はあった。ひとつ大きな違いは東京の「飲み」の文化。
仕事でつらい思いをしても、仕事仲間と「これから飲むか?」で救われていた。基本みんな電車通勤。「飲み」がとても気楽。しかし島根は車社会。気軽に飲みにいける文化は無い。前もって計画をして飲むのだ。
東京スタイルに慣れきってしまっていた自分、島根でのストレス発散方法を掴めぬまま、時は過ぎていった。そんな中、働いて半年が過ぎたくらいだろうか、そのコールセンターが撤退を決める。チームは解散。希望者は依頼元と直接雇用することは出来るが給与は下がる。そんな条件だった。
この時、すでに心は東京。やっぱり東京が合っている、ネオンが恋しいとばかりに東京への舞い戻りを決断した。
当時少しずつ音楽も始めていて、バンド活動も動き出していたが、メンバーに東京へ戻ることを話し、再びの上京を決めた。

と、ここまで振り返ったらけっこうなボリュームに・・・
とりあえずここまでパート1として、続きはパート2で!