こっちの世界を取り戻そう 116/365
何かたしかなこと、真実をつかみたいと思った時、自分は無知だからそれがまだわからないんだと思うことがあります。
だから、初めは必死に知識を入れようとする。
何か知れば、たしかなことがわかるって思う。
でも、知識は入れても入れてもキリが無い。
もう、なんだかわからない、きっとこんなこと考えてもどうしようもない。
だったら楽しくなるように考えた方がいい。
楽しく、前向きに!
そんな気持ちになることってあると思います。
生き方を自分の感情や感覚で測るみたいな感覚。
それはそれで、良いと思いますが、そもそもわたしたちが存在している、立ち位置や存在の場所があやふやだから、どこまで行っても落ち着かないのだと思います。
すさじいと過ごした夏の中で、すさじいは僕に空間認識について、強く語りかけます。
見ている世界と見られている世界の区別をしっかりするのだ主張します。
人間は二つの世界を持っている。
二重化する世界に住んでいるのだと。
このことはわかりますか・・・?
これって、よくよく考えると当たり前ですが、わたしたちの視覚世界では物の大きさはいつも変化して見えます。
遠くのものは小さく見えて、近くのものは大きく見えます。
だから、大きさという固定したスケールは視覚の世界にはありません。
でも、それでは他者との統一が図れません。
だから、一度スケールを作るのです。
昔の日本人は寸とか尺とかという単位の長さの単位を使っていましたが、それは人間の視覚の世界で見た自分の手や拳のスケールは成人であれば大体一緒でそれを統一のスケールとして使えると考えたからです。
そしてそのスケールを手が届かない、遠くにもイメージして、もしあそこに行って身体で測ったら何寸、何尺という風に想像したんです。
これ自体がちょっとおかしいよ!ということです。
もしもあそこに行ったら?という想像がある時点で本当に見えている世界の話ではないのです。
誰もが共通に想像するイメージの世界。
本当に見えている世界はどちらかといえば映写機が映し出しているような世界です。
ここ最近のテクノロジー進化でヴァーチャルリアリティ(VR)という技術が一般化してきました。
だから、見えている世界が映っているだけ、という感覚はもしかしたら若い人の方がわかりやすいかも知れません。
VRの技術なんて使わなくても、そもそも視覚の空間がそうなっているよ!
そういうことを伝えるためにこのような技術が出来立てきたのかも知れません。
空間を見ている場所はどこですか?
いつもどこから世界を見ていますか?
そうなってくると、いつも、今ここから世界を見てきたとしか言いようがありません。
その場所はどこでしょうか?
VRの映像の中で空間が広がっていくように、わたしたちの視覚の映像の中でどんどん空間が広がっているとしたら、そこには絶対的なスケールなんてないですね。
固定化された空間というような世界はVRを見ている人には視覚化されても、その装置を取ったらどこにも存在しない。
しかし、それでは外側に統一の世界が作れない・・・だったら一度みんなで大体の共通のスケールを作って、そういう世界を脳内に作ってみよう!
そんなアイディアで生まれたのが、わたしたちが普段、世界と認識する世界です。
だから、これはだたのアイディアなんです!
たしかなのは今ここの見えている世界。
いつも、わたしにとってたしかなのは、この世界のはずです。アイディアが浮かぶ以前の世界です。
おそらく、巷で次元上昇とかアセンションとか言われているのは、こっちの世界を取り戻そうということです。
これからの時代はこういう世界の見方、認識の仕方を人々は模索します。
知識偏重の時代は終わり、認識論に変わっていきます。
そういった時代に、大切なのは自分自身の位置。存在です。
それは他人との関係性での位置ではありません。
どこどこ会社の社員、誰々の親とか、どうしても外の関係を立ててから、自分の存在を示すことが今は多いです。
しかし、大事なのはそもそもの存在です。
こういったことはずっと哲学が模索してきた分野です。
でも、これからは学問でそれをするわけではないのです。
誰かに習うでもなく、自分に問う。
そういうことをする時間が必要になってきます。
そういう意味では、少し日常から離れる必要があるし、普段の時間の流れを断ち切る必要もあります。
いわゆる、リトリートという滞在が必要になってくるかも知れません。
もしも、静かな田舎の中でそういう時間を持ってみたいと思われたら、一度、民泊すさのわへ滞在してみませんか?
パワースポット近くの立地、自然に囲まれた環境が何かのきっかけになるかも知れません。