歌うことは空間の蘇生作業に似ている。
万物は循環している。
私達が生きている大自然も大いなる循環で成り立っている。
水は大地に流れ、海へと運ばれる。そしてまた水蒸気となり、空へ帰る。
そして雨となりまた大地を濡らす。
この世界は循環で成り立っているというのは言うまでもない。
そして、私達の体や存在に着目してみる。
普段は無意識だけど、常に体は呼吸をしている。
外界の空気を吸って、体に取り込み、それをまた排出している。
私達の体もまた、自然界と同じような循環の中で、存在している。
このような循環の中に、実は見ると見られるという循環もある。
これは物理的な変化を伴うものではないので、意識はされにくい。
認識上で起きていることである。
しかし、見るという行為と、見られるという認識を同時に行いながら、ある意味循環させて世界を把握している。
呼吸や認識は普段無意識で行なっているので、一度それ自体を改めて認識してみると色々な気づきがある。
呼吸に関してはヨガや呼吸法などでしばしば取り上げられるので、一般的になっているかも知れない。
呼吸の循環というとはある意味分かりやすい。
しかし、視覚上の認識、見る見られるに関しては、まだあまり意識化されていない。よって、こういったことを説明する体系があまり無い。
普段、私達は見るという行為と見られるという行為を無意識の上でグングン回しながら生きている。
現代人の感覚としては人間の脳がその機能を担っていると考えられる。
眼と脳機能を使い、ビジョン化したり、言語化しているという考え方が一般的であろう。
しかし、もう一度、実際に見えている世界で起こっていることをよくよく考えてみる。
私達はいつも見ているだけではなくて、見られていることもセットで認識し世界を把握している。
そうでなけれは例えば、私がこれを見ているという認識にはならない。
私というのは見られることによって浮かび上がる像であるはずだ。
また、世界を認識するときのその物についてもそれに付随した言語と一緒に把握し、その物を浮かび上がらせている。
言語もまた他者からもたらされたものだ。
実は見えている世界には大いに他者が関係していて、他者とのフィードバックで組み立てられている。
だから、一人一人に浮かび上がっている世界もまた、こういったものとの循環の産物と言える。
この時の循環も、呼吸のように内から外へ、外から内への循環だ。
この場合、内とは自己、外とは他者となる。
こうして、考えてみると空間はまるで生きているみたいだ。
空間が呼吸をしているようにも見えてくる。
そして、先程も示した通り、空間が呼吸するのに必要なの見ると見られるという行為。
ここで大事なのは、見るは個でも成り立つのだが、見られるは他者が必要だということ。
そう、空間の呼吸に必要なのは自己と他者なのだ。
今はまだ、空間の呼吸にほとんどの人は気が付いていない。
空間や物質がただそこに存在していると思っている。
その認識では空間は呼吸停止状態。
現代はもう瀕死状態なのかも知れない。
だからこそ、今、この空間を蘇生する新たな認識が必要なのだ。
空間の呼吸は一人では出来ない。
常にわたしとあなたで共同作業を行わなくてはいけない。
こういった世界観が確立されなければ、人間はどんどん個別化し、自然界の循環から取り残される。
空間に呼吸を取り込ませることができるのか?
見ることと見られることを循環させることができるのか?
こういった視座が絶対的に必要になってくる。
そして、今回のタイトルへとつながってくる。
僕にとって、歌うこと。
空間に呼気から発せられる音を浸透させることにより、空間にあなたとわたしの循環を生み出そうとしているのかも知れない。
瀕死の空間への蘇生作業にも似ている。
空間の呼吸は一人では成し遂げられない。
必ず誰かが必要だ。
だから、いつも、歌う。
誰かに届くことを祈って。