
そもそも、距離なんてない
目の前に広がる空間を見た時、そこに映る景色、像。
そこに、距離はあるのでしょうか?
ここから、あの壁まで2mだ、と考えている時、どの視点から見ているのでしょう?
きっとメジャーで測ったら、奥行きに2m伸びるに違いないと、思っているけど、「奥行きに伸ばした」と考えたときは、視点の位置が90度横に移動しています。
つまり、実際に見ている視覚の世界では、奥行きは測ることの出来ない空間なんです。
だから、極端に言うと、奥行きに距離は無いのです。
この図形に奥行きはないですね。
面です。
しかし、線を書き入れると・・・
宙に浮かんだサイコロ(正六面体)のようにみることも出来ませんか・・・?
僕はこのことに気が付いた時に衝撃が走りました!
縦と横は空間に線で描けるけど、奥行きは本当は線で描けない・・・
それは人間が勝手に作った概念・・・
だから、奥行きに距離をイメージするのは概念の成すところで、実際に見えている世界の奥行きは距離がないのです。
だけど、ここからあそこは遠い、何キロ離れている、地球から月は何キロ離れている、太陽は、銀河は・・・?と、遠く遠くの概念で広げていきます。
それって、実際に見ている世界では無いんです。
概念の世界です。
だから、例えば道路標識も進行方向(奥行き方向)を示す時には↑(上の矢印)で表示するしか無いですね。本当は上は上空なのに・・・。
そう考えた時に、この見えている空間に劇的な変化が起きます!
そして、この二つの見え方は有名なルビンの壺とも関係もありそうです。
これも、ある意味、人間の錯覚や物の見方を表した図ですね。
どちらかを図とするとどちらかは地になる。
図と地の関係。
両方一緒には見れない。
どちらかを立てると、どちらかが沈む。
これが、見えると見えないの根源だし、意識と無意識の根源だと思います。
そう、わたしたちには常に二つの見方、視点があるんです。
だから、奥行きに距離がないという見方も出来るけど、概念を発動すれば、距離はあると言える。
そんな、ある意味二重化した世界に生きています。
色々な矛盾や齟齬の原因はだいたいここにあると思います。
そして、現代は言語から作り出す、概念の世界がほぼほぼ幅を効かせています。
奥行きに距離があるという前提で考えを組み立てましょう。
そういう約束で科学も進歩してきました。
概念でしかないものをあるという前提で世界を構築してきました。
あくまで、概念の世界を・・・
そうすると、図と地の地がどんどん忘れ去られます。
地が支えているから、図が見えている。
陰に沈み込む存在があるから、陽がある。
これはワンセットなんですね。
科学は見えているところだけで、世界を解釈しようとするから、片手落ちになりがち。支えている地のことをあまり考えないんです。
きっと、真実はその両方を統合したところにあるんだと思います。
そろそろ、一方的なものの見方を卒業するときです。
あるけど、ない。ないけど、ある。
という、世界の認識の仕方が必要となってきました。
量子論を考えるにあたっても、そういう見方出来ないと、理解できません。
そんなことを考え、一つの小説にまとめました。