
時間の三層構造
ここ最近、書き続けている、ゲシュタルトシリーズ。
新しい時代の在り方をずっと模索しています。
その過程でやっぱり引っかかるというか、問題になるのは『時間』という概念です。もう、時間が大切って当たり前にいうじゃないですか?
でも、時間ってなんだ?って、あまり深くは考えたことは無かったし、何となくぼんやりとした対象でした。
以前、時間は大切、時間こそ命だ、みたいな記事も書いたことがあります。
普段の生活の中で時間を意識するのは、社会の中で連動して動いている時だと思います。もし、人里離れた山奥で一人、自由に行動できるのなら、おそらくそんなに時間のことなんて考えないでしょう。好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな時に寝るのかもしれません。
でも、現代人のわたしたちはいつも時計と時間と睨めっこしています。
それだけ、社会的な存在だということですね。
社会的な一致を図るための時間がわたしたちにとっての通常感覚の時間ですが、これをまた別の概念で捉えている場合があります。
それは例えば、物理学で語られるときの時間です。
速度=距離➗時間
という数式は誰でも知っていますが、この時の時間って、あの社会的時間と一緒でしょうか?
例えば、わたしたちがお昼休憩を1時間取ったとします。
その時に距離とか速さとか、連動して関係ありますか?
その場にいたなら、場所は動いていないから、速さなんてないですよね。
12時から13時になった。休憩が終わった〜って感じですね。
でも、物理学では常に時間と距離がセットのようです。
速さがあるということは、何かが動いています。
それは何でしょう・・・?
それは・・・光です。光速度という概念が基になっています。
だからアインシュタインの相対性理論とか、時間が縮むとか空間が縮むとか言うんです。
ちなみに、光速度は秒速約30万キロとされていて、1秒間に地球を7周半します。一度は地球の周りを高速で回転する光の姿を騒動したことがあるのではないでしょうか?
光速は宇宙における最大速度であり、物理学において時間と空間の基準となる特別な意味を持つ値でもある。 (Wikipediaより)
つまり、物理学では光速度を基準としてその光の移動が空間と時間セットで記述されるのです。そういう世界で言われる時間とは時空という概念を持ち出すために使われるといってもいいです。
物理学の世界で扱われる時間とわたしたちが普段、意識している時間とを、まず、きっちり分ける必要があります。
つまり、前提としてすごく、大事なこと・・・
その概念は何を基準にしたものなのか?
そういった言葉の切り分けってすごく重要です。
そうしないと、概念がごちゃ混ぜになってしまって、よくわからなくなります。
そういう整理をしながら、言葉の本質に迫る。
そういう考察をしっかりしていきたいと思います。
言葉は便利です。
たくさんの概念に抽象度を重ねて、一つにまとめあげることができます。
単純な概念であれば、そこに差異は生まれにくいですが、抽象度が上がれば、すごく複雑になります。
そこの違いを分からず一方的な概念をあらゆる場面に、あらゆる人に使ったら、なかなか完全な意思疎通は難しいです。
そういう意味では、時間という概念、抽象度が高く、すごく複雑です。
ここで、一旦、時間という概念を使用している場面の違いで解剖していきたいと思います!
今、僕の中では、光速度の時間以外に、3種類の時間が思い浮かびました。
1.時計の時間→起源は日時計と言われています。
2.砂時計の時間→重力が根拠です。
3.記憶の時間→わたしたちが記憶を辿って、さっきとか、だいぶ前、とか言う時の根拠は記憶がベースです。
このように根拠が違う時間がたくさん存在している訳です。
それはやっぱり混乱してしまいます。
では、ひとつひとつ詳しく見ていきましょう。
1.時計の時間。
日時計の元は、地球の回転という動きですね。地球が太陽の周りを自転することで、昼と夜という時間が生まれます。そして、その間の見かけ上の太陽の位置がメモリになる訳です。
そして、それを他人と共有して、共通のメモリとしての時間を共有します。社会的な時間の出来上がりです。
次は
2.砂時計の時間。これは地球上の重力が一定に働くので、そこに落下の速度が生まれ、これもまた、計りとして使うことが出来ます。根拠は重力です。
動きとして、砂が重力で落ちていく動きは、空の太陽が動いていく動きと、同じ場所で観測することが出来るから、これは同じ次元に存在しているといえます。
1.時計の時間と2.砂時計の時間は本質的には同じもの、時計の時間のことですね。
最後、
3.記憶の時間です。
これはわたしたちが記憶するという機能を持っているから、出来ること。時間が流れる感覚は時計を見なくても、ある意味、視覚のない状態でも感じることが出来ます。これは感じる時間。内在時間です。これにはメモリ、尺度がありません。早く感じたり、遅く感じたりします。
こうして、ひとつひとつを削り出していくと、時間には
光、地球の回転、地球の重力、そして人間の記憶という、別々の根拠が存在していることに気付きます。
この中で、人間の記憶というのは、他人から、見ることも観測することも出来ませんね。いわゆる精神、心ですから。
他の3つに比べると異質です。
そして、物理的な3つ、光、回転、重力は要するに動きです。物理的時間です。
イメージとしては光が動いている映像、地球(太陽)が動いている映像、砂が落ちていく映像。
その映像をイメージすることが出来ます。
光速度をベースにして、時空を作るための時間は、メモリとしての時間と本来、次元が違います。ある意味時空はそもそもの世界の受け皿。その中に物質的空間を入れ込んでいます。
このような次元の違いを言葉は跨いでしまうので、なかなか厄介なのです。
時空をベースにした時間自体が例えば、早く進んだら、中に入っている世界(メモリの時間)も早く進むことになりますが、メモリの時間内だけで計測していたら、おそらく変わりはないでしょう。
つまり、どこを起点にして見るか(内か外か)により、計測というのは変わってしまうのです。だから混乱します。
そして、そこで大きな問いです。
それ(物理的世界)を見ているのは誰ですか?
動いていることを、認識する存在がいてこそ、概念は出来上がるのですが、それが誰なのか?以前、書いたプラトンの洞窟の比喩を引用します。
“私たち人間は生まれながらにして、手足を縛られて、洞窟の壁に向かされているようなもの。その背後に松明の明かりがあって、背後の塀の上で動く人形の影を見ている。”
光が動いている、地球が動いている、この動きは時空という入れ物を用意したからこそ、出来上がる概念ですが、それ自体を見ている存在、それ自体が入っている入れ物って何でしょう?
それが・・・
3.記憶の時間なのではないでしょうか?
この時間だけは異質でしたよね。観測の出来ない、内的な時間。
つまり、ひとりひとりの精神です。
時間の入れ子構造の最も外側にいたのは・・・わたしたちの精神。
この時間は計測が出来ません。自分の中にあって、あり続けているという感覚しかないからです。
実は精神、記憶という大きな枠組みの中に、光速度の時空(物質の入れ物)が出来て、その時空の中に、計測できる時間(物理的に動くことが観測される世界)というものが存在しているのではないでしょうか?
イデアとはわたしたちの精神構造。そうとも考えられます。
時間ひとつ、とってもこの三層の構造が見えてきました。
実はもっと、深い階層があるかもしれませんが、今の僕から見える世界はそんなところです。
このように、言葉の概念を、その根拠から立ち上げ直して、どの次元、どの立ち位置での解釈なのか、そこを擦り合わせながら話を進めないと、なかなか噛み合いませんし、確かな理解が難しいです。
日常の身近なところでも、グローバル化で母国語の他にも単純に訳された外国語も何気にたくさん、使っています。
そういた概念の差異を考えながら、世界を理解する、他者を理解するという視点がますます必要になってきたなと、思う今日この頃です。