あるとないの境界に生きる 157/365
非二元とかノンデュアリティーの考え方を色々な人が語られるようになって、こういった考え方に触れることも多くなりました。
象徴的なワードとして「私はいない」とか「主体と客体に分かれていない」とか言われたりします。
こういう言葉は、すべての存在は「現象」であり、現象であるものは実在しない(幻想である)ということから来ていると思います。
まず、初めに「私はいない」という言葉を聞いたときは、「そんなはずない!いるもんはいる!」と思うはずです。
だって、ずっと私で生きてきた。私が生きてきたから。
それをいないと言われると、今までの自分はなんだったのか?という虚無感に襲われることもあると思います。
僕もここのところをずっと考えてきました。
私はいない・・・について。
この言葉は単純に受け取ってしまうと、その本質を見誤ると思います。
ある意味、すごく極端な表現。
普通に考えると、どう考えても私はいるはず。(笑)
なのに、なぜ・・・?
私はいない、というのはもう少し噛み砕いて言うと、私という存在は私や誰かの頭の中にしかいない、ということだと思います。
私という説明できる存在は、誰かを通してでしか、存在が出来ない。
その誰かがいなくなれば、私もいなくなる。
ならば最初から、いない・・・のだ。
誰かを通してでしか存在しない私は、名前を持っていたり、役割を持っていたり、肩書きを持っていたり。
そして、写真に映っていたり、動画に映っていたり、鏡に映っていたり。
つまり、必ず外側のワンクッションが入り込んで浮かびがる私。
それは外から映し出されているだけ。
だから、私はいない。
そういう、論法になるのだと思います。
そう考えた時、私はいないのか・・・
となりそうですが、実はそこからが本当の自分の存在を見つけるチャンスなんだと思います。
では、鏡に映っている自分を見ている存在は?
名前を呼ばれている自分を見ている存在は?
つまり、映し出された自分を見ている存在が必ずいるはずです。
その存在がなければ映し出された私を見ることは出来ない。
それがもうひとりのわたしです。
そして困ったことにその存在は、目には見えない。
なぜなら、見る主体そのものだから。
そういう風に認識が出来上がっていて、わたしたちの存在する世界があるんです。
ある意味、
あるとないの境界に生きているのがわたしたち。
だから、端的に私はいないというのも、半分そうで、半分はそうでもない。
とても難しい解釈になります。
ここのところを、じっくり考え、現実の目の前、知覚の世界に下ろしてくる。
そんな感覚がとても重要で、その為にはしっかり目の前を見ること、空間を見ることなんだと思います。
あるとないの境界で生きていることを実感し、しっかり二元を超えていければ、本当の非二元、ノンデュアリティーの世界がはっきり見えるようになると思います。