古代ヤマト誕生〜まとめ
古代史の謎はたくさんありますが、私が特に気になっていたのが次の5つ。
(1)邪馬台国はどこにあるか?
(場所云々だけでなく、歴史上ヤマト政権とのつながりは?)
(2)天皇家(古代ヤマト政権)はどう生まれたのか?
(3)ニギハヤヒはなぜナガスネヒコを殺したのか?
(4)オオモノヌシは何者?なぜ三輪山に祀られているのか?
(5)箸墓古墳の被葬者は?なぜそこに作られた?
でした。
(1)については別のマガジンや拙著で詳しく書いたので割愛しますが、
それ以外の謎を解くにはどうすればいいのだろうか?
などとボーッと考えていたある日、私はあるシンポジウムを拝聴したんです。
松木武彦(長く岡山大学の教授でいらした)先生の発した言葉でした。
「ヤマト誕生前夜の2世紀、すでに吉備と出雲は同盟を結んでいたようです。
でも後に、ヤマト政権に対しこの両者は全く異なる反応を示しました」
「あ!これだ!」
この言葉を聞き、私の目の前には、みるみる光の道が開けたようでした。(笑)
古代史の謎の中心は、やはり出雲だったのだ、と。
出雲が吉備と同盟を組んでいたなら、
もしかして吉備とともに出雲も、纒向へ本格進出してたんじゃないのか?
その視点から古代史を見てみようと思い立ったんです。
すると、本編で書いたように「ニギハヤヒ→吉備王」「ナガスネヒコ→出雲王」という極めて単純な構図に比定され、するすると謎は解けていきました。
(もちろんナガスネヒコ自身は、異説にあるように北陸から東北へ逃げ延びた可能性はありますが、ここは俯瞰的な構図としての位置づけです)
3世紀の纏向で、出雲と吉備は、九州からやってきた魅力的な新参者を取り立てるか否かで意見が分かれ、最終的に吉備が出雲を大和から追い出し、吉備勢力と九州一族で古代王朝(天皇家)は設立された。
それが、“ニギハヤヒによるナガスネヒコ殺害“の実態であり、
神話においては“スサノオの高天原追放“であったのだろう、と。
そして、直後に起こった天災と疫病が、出雲の祟りだと信じたヤマト政権は、
大慌てて自らの神・アマテラス神を大和から外へ遷し、出雲系の神官オオタタネコを呼び寄せ、オオモノヌシ神を三輪山に祀ったのではないか。
そしてこのような顛末と出雲の痕跡を、歴史上、残さぬよう消した、と。
さらに、6世紀物部氏宗家の滅亡によって、吉備の活躍さえも最小限に抑えた。
ひょっとしたら古代ヤマトの誕生では、吉備系勢力がイニシアチブを握っていたのではないかとさえ思うのですが、最後に残ったのは、九州系の王族。
つまり8世紀初めに完成した正史「古事記」「日本書紀」には、
九州の王が東征して王朝を作り、初代天皇として即位したと書かれ、功績は全て九州勢力だったとしたわけです。
正直申しまして私自身、思いがけずこういった古代史のアウトラインが描けたことに驚いています。
ただ、これが単なる妄想と切り捨ててしまうのは簡単ですが、
不遜な言い方をさせていただきますと、
このような単純な構図を、世の先生方は気がついておられるのだろうか、あるいは根も歯もないものとして考える価値もないのか、実際はどうなのでしょう?
もしかして「邪馬台国は纏向である」という発想から判断されているので、はじめから発想していないのかもしれない。
「魏志倭人伝」に書かれた記述のうち、「鬼道」や「銅鏡百枚」「径百余歩」部分は重視して、纏向から出土した大型建物群・出土品・古墳などとすり合わせ、なんとか邪馬台国と纒向の蓋然性を見出そうとしてます。しかし反面、邪馬台国への「道のり」の記述は軽視する傾向にある気がします。
また、銅鏡文化が明らかに九州から畿内に移って来たのに、「記紀」に書かれた神武東征は絵空事とし、自国の歴史書をあまり顧みることをしない方もおられる。
それらは、無意識にも“邪馬台国は纏向“、という概念が強すぎるからではないか、とも思えるのです。
問題は、なぜ記紀は神武東征という絵空事を書いたのか、どこまで絵空事なのか?なぜ陳寿は邪馬台国への行程をあんな曖昧な言い方にしたのか?そこを探ることにこそ真実はあるのだと思ってます。
以上。
私などの素人が語ることではないのですが、濃霧の中にいた古代日本の面影は、おぼろげながら少しずつ浮かんで来たのではないかと思っています。
みなさん、いかがでしょうか?
さらにこの仮説は本当に正しい方向を向いているのか? これからも検証を続けていくつもりです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。