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邪馬台国への道 <方角の疑念>

久しぶりに邪馬台国の検証をします。
私は「 魏志倭人伝」に 記された方角に疑念を持ち、倭人伝は45度方位の間違えているのでは?と提唱しました。(『邪馬台国は隠された』)
まずこの地図をご覧ください。「倭人伝」ではクニへ行く方角を次のように記載しています。
「対馬国」→南→「一大国」
「末盧国」→東南→「伊都国
「伊都国」→東南→「奴国」


どうみても実際の方角とは異なりますね。そこでもしかして、魏の使者が方角を「勘違い」してたかもしれないと思い、その理由として
水行は「西から東へ流れる対馬海流に惑わされた?」
陸行は「夏至の日の出は、真東より30度近くズレて出るため、曲がりくねった山道を行く魏の一行は正確な方角がつかみきれなかった?」
こうして魏使者は方角を南へズレて認識してしまった可能性があるのでは?と考えました。

しかしこれだけでは根拠が足りないという声もあり、確かに“勘違い“だけでは説明できない疑念を、ここに補強しお伝えしようと思います。
距離の「粉飾」はのちに述べるので、ここでは方角の「疑念」について少し詳しく説明しましょう。

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そもそも「魏志」に「倭人伝」を書き残した意図は、なんだったのか?

改めて考えてみると、
ひとつに、責任編集した陳寿が、魏の時代の、司馬懿の功績を讃えるためにこの「倭人伝」を編纂した側面があります。

つまり
「司馬懿さまは海の向こうの遠くの大国でさえ服従させた」

このように印象づけたかったわけです。
もちろん「遠くの大国」とは「邪馬台国をはじめとする倭国」にほかなりません。

では、海の向こうとはどのあたりを指すのか?
なんとその場所、倭人伝では明確に示しています。
倭国への道のりや地形などを説明した後、はっきりこう言い切っているのです。

「その道里を計るに、(邪馬台国は)まさに会稽東治(かいけいとうち)の東にあるべし。」                  (原文「當在会稽東治之東」)

わざわざ「當」の文字を加え、倭人伝は高らかに
「まさに(邪馬台国は)会稽東治の東にあるべし。」 と。

実際の地図をご覧ください。
会稽とは呉王朝の重要な拠点(現在の紹興市一帯)
その東にあるというと、今の屋久島あたりでしょうか。
この一節のみ取り出して、「邪馬台国沖縄説」なども飛び出してるようです。
いずれにせよ倭人伝では、実際より南にある島国として認識していた、ということがわかります。

そう、呉の沖合にある海洋国家、それが邪馬台国だと言うのです。


2

本当に、魏王朝や陳寿までもがそう認識していたのか?

それを確かめる術はありませんが、中国ではかねてより対馬海流の影響を受け、会稽の港を出て東の沖合に出るとそのまま海流に乗り、倭国へ到着しやすかったのは、事実です。

したがって会稽の沖合から東へ、実際の地形よりさほど離れていないところに倭はあった、と考えていても不思議ではありません。
その証拠に、ジャポニカ米の原産地は、会稽の港などを経由し東シナ海を渡った福建米ですし、

会稽を首都とした古代国家·越からも、戦いに敗れた多くの人々が日本に渡っています。日本海側の「越前·越中·越後」はその名残と言われています。遣唐使船も後期になると、南航路(東シナ海横断)が 中心でした。

このように 中国の人々は、会稽地方から倭国へは 実際の距離より近く感じていたはずです。

となると少なくとも、
司馬懿がそう認識したからこそ、西暦239年に卑弥呼へ金印を贈ったということになるでしょう。
陳寿は倭人伝を書くにあたり、この「倭国は呉の沖合にある国」という”事実”を、しっかりアピールしておかねばならなかった。

なぜなら「倭人伝」が、軍事的にも魏の優位性を保つ貴重な情報源になったからです。

言うまでもなく三国志時代、魏と呉はライバル関係にありました。
となると倭国が、呉の背後に位置している情報をアピールし、この国は魏の指示によって動く国であるとなれば、有事の際は倭国が背後から攻めてくるゾ、という牽制を呉へ与えられるわけです。

これでは魏志倭人伝を読んだ呉の残党も、ヘタに先手を打つことはできないし、船で打って出ても、背後の海洋国家である倭の軍団に挟み撃ちにされる可能性もある。呉の残党には想像以上に、難しい軍事作戦となったことでしょう。

これこそが司馬懿の功績であり、「倭人伝」執筆の意義でもありました。


陳寿自身も、呉へ敵対心を抱いていたようで、蜀に対しては劉備を「先主」、劉禅を「後主」と呼んでいたのに対し、孫権は名を呼び捨てにしていました。倭国の存在を書く際、呉を意識していたことは間違いありません。


3

さて、と言うことで話を元に戻しましょう。

倭国の位置は、どうしても呉の沖合=会稽東治の東になくてはならなかった。
これは結果ありきの、陳寿のミッションであったことでしょう。

しかし魏の一行が、もう少し正確な方角·距離の提供をしていたら、どうなるでしょう?
「末盧国」「伊都国」「奴国」「不弥国」みな予測した方角と違う。
このままでは「邪馬台国は会稽東治の東」へ行きつかない。
陳寿は焦った。
そしてついに彼は熟考の上、実際の位置より南へ南へと引っ張って行くバイアスを施した、
と推測できるのです。すなわちこのように。

            実測(実際の方位)  倭人伝記載

対馬国→一支国(船)    南南東        
末盧国→伊都国        東         東
伊都国→奴国         東         東
奴国→不弥国         ー         東

水行はまだしも、陸行となると明らかに「南」の文字が挿入されています。
そう、この時点で「45度バイアス」をかけている、と判断できます。

しかし次の「不弥国」へは意外にも「東」と記載されており、
おそらくそれは、”奴国から左45度曲がる”こと、を意味し、
バイアスを解くと「東北」方面の古賀市~福津市付近に不弥国があることを示唆しているのでしょう。

こうしてみてわかることは、どの国も海岸線に沿っていること。
おそらく不弥国までは方角の改竄はあっても、丁寧に記述しようとしているフシは見られます。

しかし問題は次の2国。
「南、水行20日、投馬国へ至る」
「南、水行10日、陸行1ヶ月、邪馬台国へ至る」
ここで非常に大雑把な表現に変わるのです。

            実測(実際の方位)   倭人伝記載

奴国→不弥国          東北        東
不弥国→投馬国→邪馬台国    ?        南→南→南

あえて陳寿の書いたまま表現するなら、上の地図のようになります。
いかがでしょう?
実際にはあり得ない位置に、邪馬台国は現れました。
これが、陳寿が内外にイメージさせたかった地勢ではないでしょうか。

どう考えても、魏人の”勘違い”や”誤差”だけでなく、陳寿の”改ざん”があった可能性はぬぐえません。正確な邪馬台国家への道は、このバイアスを解いていくことでしかありませんね。

さきほどの検証では「不弥国」は福岡市から東北へいき、古賀市~福津市付近に位置していたと推察できました。
これを事実とするなら少なくとも45度、地形がズレているわけです。
この不弥国を起点にすることと、45度のズレをヒントに、「邪馬台国」の位置は特定できるはずです。

さて、ここで邪馬台国の場所特定まで書いてもよいのですが、
またまた長文になるため、最後まで気になる方は私の拙著『邪馬台国は隠された』へか、(「うわ、まじか!」と思われないように(笑))同じnoteブログ「新説!邪馬台国の真相10/11」へ飛べば、この続きが記載されていますのでご安心を。
合わせてご覧いただければ幸いです。

新説!邪馬台国の真相10>>>>
新説!邪馬台国の真相11>>>>


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