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今回はマイナーな(?)銅鐸について書きました。 が、調べていくうち意外なことに、古代史の重要な謎が すんなり解けていくではありませんか! よろしかったらお付き合いください。 1〜2章は主に世間で言われている定説、 3章以降は私の視点でお話ししています。(全6章) 【1】銅鐸とはなんだ? 【2】銅鐸はガラパゴス 【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ 【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた? 【5】ヤマトを建設したのは誰? 【6】銅鐸の神は今に生きている 古代史の中で、知る人ぞ知る大変なお宝があり
【2】銅鐸はガラパゴス 銅鐸の起源は、中国古代国家「越」の銅鈴、 または朝鮮半島の小銅鐸からきたと言われています。 呪術師が衣装につけ、鈴のように鳴らし、祈りの儀式に使ったようです。 しかしそれが日本に渡ってくると、みるみるガラパゴス化。全く独自の進化を遂げていくのです。 銅鐸のルートをざっくり説明しましょう。 紀元前3世紀頃、まず北九州に伝わった小銅鐸ですが、なぜか九州では定着せず、 出雲の地でサイズが大きくなり、本体に文様や絵画が描かれ、使い方も含めて独特の発展
【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ もともと銅鐸は、豊作を祈る祭器として使われた、と先ほど申しました。 「鈕(ちゅう)」と呼ばれる輪っかにヒモ数本で木などにぶら下げ、巫女や村長が「舌(ぜつ)」を使ってカンカンと鳴らし、 ムラに平和と実りをもたらすよう祈りました。 ただ、ここまではほぼ定説ですが、誰にどう祈る儀式だったのか?詳しいことまではわかっていません。 以前放送されたNHKの歴史番組では、角田遺跡(鳥取県)に残された土器の絵を参考に、 2個の銅鐸をこのように吊るし鳴らしたの
【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた? さて、ここからはやや妄想の域を出ないかもしれませんが、お聞きください。 先ほどからも触れていた謎ーーなぜ忽然と銅鐸は消えたのか?を検証します。 銅鐸は、みな不思議と集落から離れた、小高い丘陵の斜面に埋められていました。 入れ子状態で丁寧に埋めたもの、わざと丁寧に割って埋めたものなど様々です。 が、彼らは本当に外敵に敗れて、あわてて銅鐸を捨てたのでしょうか? 下のグラフをご覧ください。 これは、総合地球環境学研究所(京都市)の中塚武教 授
【5】ヤマトを建設したのは誰? 銅鐸の民は、 こうして纏向で興ったヤマト政権のなかに組み込まれていきました。 さて私は、さきほど西から来た民がヤマト政権を築いたと話しました。 が、それは西の民が単純に北九州の一族のことだとは思っていません。 なぜなら、纏向の最古級の前方後円墳(石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳)には、 「銅鏡」が1枚も出土していないのです。 副葬品として銅鏡が出土するのはホケノ山以降の古墳。 九州王の墓だとしたら、これはおかしい。 なので
【6】銅鐸の神は今に生きている さて、最後に私が気になっていることをお話しします。 先ほど、銅鐸の民が自らの神を捨てた、と話しましたが、本当にそう言い切れるでしょうか? 銅鐸そのものはたしかに土中に埋められました。しかし「神は天雲に宿る」という銅鐸の民の思想まで完全に消し去ったとは、私にはどうしても思えないのです。 かつて大場巌雄國學院教授は、銅鐸の出土地をくまなく調べ、 その近くに三輪(ミワ)氏・加茂(カモ)氏に関係の深い神社や地名が36例あると指摘しまし た。 教授