消えた銅鐸の謎 3
【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ
もともと銅鐸は、豊作を祈る祭器として使われた、と先ほど申しました。
「鈕(ちゅう)」と呼ばれる輪っかにヒモ数本で木などにぶら下げ、巫女や村長が「舌(ぜつ)」を使ってカンカンと鳴らし、 ムラに平和と実りをもたらすよう祈りました。
ただ、ここまではほぼ定説ですが、誰にどう祈る儀式だったのか?詳しいことまではわかっていません。
以前放送されたNHKの歴史番組では、角田遺跡(鳥取県)に残された土器の絵を参考に、 2個の銅鐸をこのように吊るし鳴らしたのではないか、と結論づけました。
面白い検証です。 2個まとめて揺らした方が、大きくリズミカルに音が出るのです。
(NHK「歴史秘話ヒストリア」より)
では、なぜこのように鳴らしたのでしょう?
弥生人にとって、金属の音は初めて聞くものです。
それまでの石や木のぶつかる音と違い、 神に通づるようななんとも不思議な音色と感じたでしょう。
私が思うに当時の人々は、 銅鐸をガランガランと空に響かせ天を刺激すれば、眠っていた神が起きて、雲を生み、 雷を鳴らし、雨を降らせてくれると信じていたのではないかと考えています。
銅鐸の音色は、雷鳴に見立てることができます。
そこで焚き火をすれば、立ち上る煙は、低くたれこめる雨雲に見立てることもできます。
実際に、このような雨乞いの儀式は各地に残っていまして、
山伏が焚き火で雲を表し、太鼓をたたいて雷鳴を真似て、降雨を誘おうとする呪術。類感呪術というものがありました。
これと似たようなことを銅鐸の民はこの時期に行なっていたのではないか、と。
これらは大自然を相手にした人間の、ささやかな知恵なんだと思います。
さて、そこで私は、「銅鐸は雨乞いの祭器だ」ーーという発想に至った時、
ふと思い立って、ある数値で裏付けられないかを調べてみました。
以下の数値は、各地の年間降水量です。
この数値は現在のものですが、降水量の比較に関しては弥生時代も今とさほど変わらないので、 それを地図にあらわすと次のようになりました。
そこに、鳴らして使った「聞く銅鐸」の出土地を重ねてみましょう。
いかがでしょう?
なんと、出雲以外は驚くほど重なりました。
つまり、降水量が少なく、日照時間の多い地域は、当然”干ばつ”になりやすい。
銅鐸が使われた地域は、このように干害の発生しやすい地域でした。
このことから銅鐸は、豊作を祈念した”雨乞い”の祭祀として使ったものと言えます。
一方、逆に日照時間の少ない北九州地方は、雨も多く、水害リスクの高い地域でした。 今でも集中豪雨が頻繁に起きている地域です。
なので、雨乞いの銅鐸信仰ではなく、「銅鏡」を祭祀道具にした”日輪信仰”が定着したのではない か、そう考えます。
出雲に関しては、1世紀を境に鉄の文化が朝鮮半島から導入されます。
そこでいち早く、四隅突出型墳墓を擁する王国が誕生することになり、
銅鐸をもちいてムラの豊作を願う農村システムは、早々に終わりを告げたと考えられます。
したがって、出雲における銅鐸は短命となってしまったようです。
いや、短命というより、銅鐸づくりの職人たちが出雲を出て
近畿や瀬戸内へ散らばっていった、と考えるべきでしょう。
以上、 こう考えると、
銅鐸の民は、恵みの雨をもたらす雲に「神」を見たのではないでしょうか。
「神は、天の雲に宿る」と。