消えた銅鐸の謎 1
今回はマイナーな(?)銅鐸について書きました。
が、調べていくうち意外なことに、古代史の重要な謎が
すんなり解けていくではありませんか!
よろしかったらお付き合いください。
1〜2章は主に世間で言われている定説、
3章以降は私の視点でお話ししています。(全6章)
【1】銅鐸とはなんだ?
【2】銅鐸はガラパゴス
【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ
【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた?
【5】ヤマトを建設したのは誰?
【6】銅鐸の神は今に生きている
古代史の中で、知る人ぞ知る大変なお宝があります。
その価値、1センチ単位で100万円ともいわれながら、歴史教科書ではほぼスルーされ、 何に使うかもわからず、2000年の時を超えて今に至る日本独特の謎の遺物。
そう、銅鐸です。
ひょっとしたらこの銅鐸にこそ、今の日本人の心のルーツが、宿っているのかもしれません。
【1】銅鐸とはなんだ?
銅鐸とは、紀元前3世紀~紀元後2世紀にわたって作られた、釣り鐘型の青銅器です。誰もが一度は写真や映像で見たことがあるでしょう。
以前はこれは楽器なのか?と思われていたようですが、
風鈴のように内部に「舌」がある銅鐸が多数発見されて、銅鐸全体を揺らして、舌をぶつけ、ガランガランと音を奏でるものだということがわかってきました。
表面には文様や絵画の描かれているものが多く、
シカ・人・サギ・魚・カエル・猪など、画題がいずれも水田稲作の風景に深く結びついていることから、豊作を祈願する祭器であったことは確実でしょう。
ただ、舌の当たる部分のすり減り方からして、年に1度の祭りに使ったというより、ほぼ毎日の儀式のように鳴らしていたのではないか、というのが最近の解釈です。
私は、実用品として味気のないシンプルな弥生土器とは異なり、
どこか縄文の人間的な温かみを感じさせてくれる銅鐸が好きです。
きっと彼ら銅鐸の民は、同じ弥生人というくくりでも、
鉄の武器を扱う弥生人とは一線を画した、平和を愛する農民たちだったのではないか、そう感じてしまいます。
この祭祀をとりしきるのは、ムラの巫女か村長だったでしょう。
これは私の解釈ですが、こういう祭祀を行うということは、農村に身分の差は
ほぼなかった、と思います。
農耕は一人ではできません。集団になって全員で豊作祈願の思いを共にするのですから、そこには「権力者と服従者」という構図はなかった。
つまり、銅鐸が出土するところは平等なムラ社会を維持していたと言えます。
銅鐸は広く出雲~近畿~三河~東海地方で出土し、その数は約500個にものぼりました。 大きさは様々で、最初は3センチという小さいものだったのが、
時代とともにどんどん大きくなり、 文様も複雑化、最後は1メートル37センチの見事な芸術品となります。
ところが、その最大の銅鐸を最後に、忽然とこの世から姿を消します。
しかも多くの銅鐸は丁寧にまとめて、 各地のムラはずれの丘の土中に”埋葬”されるのです。ときは3世紀初め。その後銅鐸は全く作られなくなりました。
なぜ?
どんな理由があって作られなくなったのか?
その謎は未だ解明されていません。
このコラムではまずは定説を踏まえつつ、その先を探る思い切った検証を試みます。私は、今の神社の形態にもつながる祖型がそこにある、そうにらんでいます。