関係性の陶酔
『三島由紀夫と東大全共闘』の映像をみた。切々と語る三島由紀夫はエロティシズムについて【縛られた女】という表現をしていた。これは三島本人を指しているのではないだろうかと凍てつく。『自分』に縛られ、『時代』に縛られ、『男性』というものに縛られ、『言葉』というものに縛られていった彼はまごうことなき守り神として実在してしまった。守らずにはいられない。ヒロイズムとも少し違う、自己完結的なものの奥に【関係性の陶酔】というものが見え隠れする。
討論の中で芥正彦が丁寧に三島由紀夫を解体していく。事物と自分をどうとらえるか?どう考えるか?あなたの存在はその先にあるのではないだろうか?と救いの手を差し伸べる。千手観音の説法のように彼に向き合うけれど、三島は寧ろそれが心地良いのだと答えてしまい、観音様は手を放してしまう。彼は蜘蛛の糸が垂れ下がってくることを拒む。
『慈悲』という言葉の中にある関係性に陶酔仕切った中毒者に感じる。
三島は天皇から銀の時計をもらった思い出を話す。『守り、守られる』という美酒の味を覚えてしまった彼は、手を変え、品を変えてその関係を作り出そうとする。そしてその最後は『天皇万歳!』といって自決してしまうのだ。彼は天皇との甘い関係性の陶酔に酔ったまま目を覚ます事がなかった。
芥正彦が三島の死に方について『大願成就』というのは、私もまったくその通りだと思う。破壊神からすると、守り神の意図や存在意義を否定したくなるからだ。当然だ。
テレビの取材は残酷だ。『共通の敵はいましたか?』と彼に問う。酷いものだ。まだ戦わせようというのか。メディアというものは常に闘争を好んでいる。目の前にいるよね、マスメディアという共通の敵。媒体と思いきや、どちらも食い尽くそうとしている。でも、彼らを逆に利用しているのが今回の出演者たちだったのかもしれない。おかげで、まんまと私は家にいながらこの動画にありつくことができてしまった。
『全共闘の存在は敗北したのではなく、拡散された』という言葉がとても重い。しっかりと拡散された後に育っている。自分の手が真っ赤な血に染まっていることに気がつく。生きるにはどちらかを選ぶ必要があるらしいということだけが自分自身の問題として差し迫る。
芥正彦の言葉はスピリチュアリズムとほぼ同じような概念であることに気がつく。事物は能動的に動かしていた結果であって、目の前に既にあるのならばそれは自らの手で破壊し、利用するべきだという結末に辿り着く。
私たちは生まれるとき『無価値観』と『罪悪感』という重りをつけて世界に落ちてくる。反転させれば『個性』となり『自愛』となるが、反転させるには何もかも利用するという気迫が必要になってくる。それが生きることであり、芸術の存在意義だからだろう。とんでもなくマッチョだ。
三島は『神経衰弱で自殺した』という人に対して怒りを向ける。問題をそうやって簡単に片づけてくれるな、と彼はいう。繊細な人はこの世界では生きにくい。芸術を施工する前に力尽きてしまう。私はヴィレヴァンでサブカルチャーに十年ほど触れてきて、芸術と呼ぶに足りないものをたくさんみてきた。ほんの個人的な小さな悲しみや、怒りを言う者には名前がない。映像の中にでてくる『自然はどう思うか?』という名もない少年が私にはとても人間らしくて美しく感じてしまった。三島はその存在に気がついていた。そして、マッチョな人に負けて欲しくないといった。ああ、嫌いだった三島由紀夫が私の心に迫ってくる。身に覚えのある【関係性の陶酔】というもので酔っぱらいそうになる。
でも、残念ながら私はそれが本願成就じゃないのだ。彼のことは大好きだけれど、自分とは美意識が合わなさすぎる。守られるのが嫌いな私はどうしたって乳化できっこないのだから。人間の感じる『美』は原体験に存在する。