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遠いシ、近いシ、わたシ

養老孟司さんは言う
『死は二人称だ』と

自分が死んでも、分からない
知らない人の死は、三人称

人にとっての『死』とはつまり
身近な人の死、二人称

その言葉を
数年間、額面通りに捉えていた

しかし最近読んだ記事に
これに加えられた言葉を知った

『二人称の死の衝撃はできるだけ少ない方がいい』

病院嫌いで有名な養老さんが
体調を崩され入院し生死を彷徨われた

最初に病院へ行くように言ったのは奥様だった
「家族にとっては二人称。仕方ない。」という話で

わたしは「嘘ん…」となった

私も誰かの二人称…
子どもにとっては、そうかも知れないけど…
どこかで息子は大丈夫だと揺るがない確信がある

衝撃は少ない方が良いなんて
至極当然なことなのに

「そんな追加情報ありましたん…」

自分の死が誰かにとっての二人称である意識が
私には薄かった

理由は明確だ
早くに家族の死を経験し
「生きることになるべく執着を持たない」ことが
人生の心得になったから

二人称の衝撃を少なくするということは、
自分の人生を受け入れ、自律し
生きる責任を取ることだと改めて実感させられてしまった

裏を返せば、自分は死なないと驕っていたことでもある
毎朝、目覚めることも、肺が空気で満たされることも、
声が出ることも、外へ出かけることも
私が出来ることは当然だと

いつ失ってもいいと言いながら
失わない。と思い込んでいる

人生を生き抜くことは
時に覚悟が必要ですが
あなた、お忘れではありませんか。と、
改めて問われた気がした

必ずシぬ
それは選べない
で、どう生き抜くことを選びましょうか


以前、知人が大海原に船を出し
大物のカジキマグロと格闘している最中
心臓発作で亡くなったと聞いた

カッコいい。と、私は思ったんだ

自分の最期は…
と、少しワクワクが湧いて気づく
私シには、分からないんだ


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