消えたくなったら会いにいく【短編小説】
犬がいた。遠目から見た時、置物だと思った。玄関ドアの前で鎮座する陶器製の犬。
誰がこんなイタズラをしたのだと苛立ちを覚えながら近づいたら首がくるっとこちらに向いた。
ゴールデンレトリバーを思わせる艶めいた金色の毛並みにピンと立った耳。ふさふさの長い尻尾を持つ中型犬くらいの体格。何より印象的なのは宇宙を想起させるようなエメラルド色の瞳。
噛まれる。咄嗟に逃げ出そうとするが、考えに身体は相反して尻もちをついた。ゆっくりと迫って来る犬に身体が硬直し、目をつむる。
暗闇の中で頬を柔らかなものに撫でられた。ゆっくり目を開けると犬が温かい吐息を吹きかけながら僕の鼻先を舐めようとしていたところだった。
そっと立ち上がり犬から視線を逸らさないように玄関ドアに近づいた。急いでポケットの中の鍵を取り出し、震える手で鍵穴に刺す。カチャリと音を鳴らすと同時にドアを開け、部屋に飛び込んだ。勢い余って前のめりに転がる。
「怖かった」
ひと呼吸おいたら安堵感がやってきたので鍵をかけようと振り向く。
誰しもが想像し得る、完璧なお座りをしている犬がそこに在った。
漫画みたいな展開。これが『リル』との短い生活の始まりとなる。
この犬は賢い。決して吠えないし、噛まない。粗相もしない。お手も待てもできる。何より驚いたのがトイレだった。器用に前足を操り扉を開け、便座に座って用を足す。水まで流して帰って来る始末だ。性別は女の子だった。
どこかで訓練されて飼われていたのが逃げ出したのか。首輪はしていない。首元にマイクロチップの感触も感じない。犬種はわからないが、明らかに野良犬とは違う気品と清潔感がある。
窃盗したと思われたくなかったので警察には迷い犬を保護していると特徴を交えた連絡をいれたが、一向に返事は返ってこなかった。
最初は追い出そうと必死になったけれど、すぐに諦めた。外に追いやろうとするたびに美しい毛並みをなびかせ僕の足元をくぐり抜ける。部屋の奥へすみっこへと綿毛ような足取りで歩いていく。
小一時間も無為な鬼ごっこを繰り広げたのち、僕は降参した。好きにしろと。
ひどく疲れていた。何もかもが面倒くさく、集中力が続かない。ゾワゾワとした得体の知れぬ黒く不快な感覚が脳から心臓を経由し全身に広がっていく。
コップに水を汲み、『頭を治す』錠剤を三種類飲んだ。ベットで横になり、頭がバカになるのを待つ。朦朧とし始める意識の中で「このまま目覚めませんように」なんて思いながら目を閉じた。
僕は二ヶ月前に心療内科で精神疾患を告げられていた。思い当たる原因は山ほどある。症状が軽度なのか重度なのかは知らない。というより頭の中がプラスティックに変質して情報は断片的にしか理解できなかった。
医者から陽の光を浴びるよう毎日の散歩を促されている。体調が悪くとも言われた通り近所を歩く。病状を緩和させるどころか、この義務感が悪化を招いている気にさえなる。
僕は居候となった犬に『リル』と名付けた。フランス語で笑顔を意味するそうだ。頭を撫でた時、エメラルドの瞳を笑ったように細めたのがきっかけだった。
僕から消え去ってしまった表情を犬が浮かべるのは不思議な気持ちだ。
「リル」
再び名前を呼ぶと甘えながら顔を擦り付け、僕の頬を舐める。
やっぱり笑っているとしか思えない。吸い込まれそうな優しい眼差しをしていた。
「名前のプレゼントは気に入ってもらえたようだね」
その証拠に、その晩からベッドに潜り込み僕の首筋に鼻息を浴びせながら眠るようになった。リルの体温は心を落ち着かせ、毛の感触は上質な絹で作られているみたいに滑らかでくすぐったさはまるでなかった。
悪夢にうなされる夜は頬の舐めて呪いを解いてくれた。
リルは外に出たがらない。日課の散歩に連れて行こうとするも頑なに拒否される。それなのにベランダはお気に入りらしい。晴れた午前中が特に好きなようだ。薄い座布団を敷いた丸椅子をベランダに置いたらゆったり座り、手すりより高くなった瞳で外をじっと眺めている。
僕の安アパートの部屋は一階なので番犬の役目も務めてくれていた。目前は比較的、人通りの多い道路だから道ゆく人の中にはリルを見て手を振ったり、笑いかけたりする人もいる。大家さんに見つかった叱られるかな、という心配もあったのだけれど。
空に鼻をかざし、太陽の光の匂いを嗅いでいる金色の後ろ姿は時折、神聖や神秘を放っていた。
リルと暮らし始めてから三週間が経ったとても寒い夜、元恋人が訪ねてきた。
僕が精神に不調をきたしたことを話したその日に僕の元から去っていった人。
僕は彼女との未来を想像していたし、助け合って生きていけると思い込んでいた。
「あなたを支えるつもりはない」その言葉を最後に僕たちは呆気なく別れた。
あの日の夜は本当に消えてしまいたくなるほど苦しさと虚しさを味わった。
そんな彼女が約三ヶ月ぶりに姿を見せた理由と言葉は、またも僕を裏切る結果となる。
「私たち、結構長い期間付き合ったわよね?」
「そうかもしれないね。とりあえず部屋に上がりなよ」
玄関口から動こうとせず、話を聞いていなかったみたいに彼女は言う。
「慰謝料っていうの? 手切れ金。払ってもらえないかしら」
「無理だよ。今は働けていないし、自分のことで精一杯なんだ」
「働いていないの? そんなの気持ちの問題でしょ。とにかく百万でいいわ。あなたのせいで無駄にした時間の価格よ」
僕は途方に暮れた。心拍数が打撃音となる。視界に黒のインクが滲み出す。血が激しく巡る音が聞こえるのに手足は凍った。お構いなしに次々と飛び出す彼女の言葉は記号のようで理解に至れない。もう黙れよ。殺したい、と思った。
突然、彼女の口の動きにブレーキがかかり顔面が強張る。みるみるうちに血の気を失い、真っ白な肌は両目を見開いている。
振り向くとリルがいた。
あんなにも柔らかかった毛は逆立ち、一度も見たことのない鋭い牙を覗かせている。エメラルドの瞳は睨みつけた先を業火に包んでしまいそうなほど赤く変化し始め狂気じみた火花を散らす。全身から殺意と憎悪を醸し出していた。
「な、なんなのよ、そいつ!」
僕は彼女を突き飛ばすように追い返し、すぐにリルを抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて」
ひとしきり撫で終えたあと、リルの表情を見たらいつもの優しい眼差しで笑っていた。止まらない涙を温かい舌が舐めとる。長い時間それは続いた。
そのたびに僕の中の黒い物が少しだけ剥がれていくのを感じた。
涙とあぶら汗とリルの唾液を流そうとバスルームに行く。シャワーで汚れを落とし、ぬるめの湯を張った湯船で心を落ち着かせる。
浴室の扉が開き、リルが入ってきた。きちんと扉を閉める。相変わらず器用な子だ。
「リルも身体を洗うかい」
犬用のシャンプーは持ち合わせていなかったので、普段使っているシャンプーを薄めて使った。
されるがまま洗われているにもかかわらず眠ってしまいそうな、うっとりした目をするリルが愛おしい。泡を丁寧に流し終え、タオルに包んでバスルームから出た。
一人と一匹でドライヤーを分かち合う。僕の髪は栄養不足のせいかパサパサに傷んでいるが、リルの毛は普段にも増して艶めいていた。
「そろそろ寝るよ。リルもおいで」
薬を飲み終え、ベッドに潜り込みながら声をかける。リルはこちらに来ず、ベランダに向かっていった。夜、ベランダに出るのは珍しい。
「寒いから早く戻ってくるんだよ」
前足を引っ掛け上手に扉をスライドさせ、静かに閉じた。いつもの丸椅子に座り、空の匂いを嗅ぐ姿がレースカーテン越しに映る。
責任を持ってリルを飼おう。穏やかなまどろみがまぶたのとばりを下ろす。
毛布をめくる気配がした。こもった熱が一瞬だけ冷気を含み、僕の隣に収まってから蓋を閉じる。リルが戻ってきた、と思い寝返りをうって胸元に引き寄せようとした。指がすべすべとしたものに触れる。いつもの感触と違う。重いまぶたを持ち上げ、映った光景に僕の頭は混乱した。
「ごめん、起こしちゃったね」
「だ、誰?」
月明かりに照らされたエメラルドの瞳が上目遣いに僕を見つめる。絹に似た金色の髪がさらさらこぼれる。裸体の女性だった。
「リル?」
「そうよ。やっと話せるわ」
何がどうなっているのかまったく理解ができない。リルは犬なのに、リルと名乗る女性がいる。犬のリルはどこへ行った?
「匂いを嗅いでごらん」
言われたまま髪に鼻を近づける。僕が使っているシャンプーと同じ香り。
「どっちが犬かわからないね」
吸い込まれそうな、銀河を内包する瞳を細めて「シャンプー、気持ちよかったよ」と彼女は微笑む。
理解は追いつかないが、この女性は本当にリルなんだ。気分が高揚して強く抱きしめてしまう。身体中の澱みを浄化する温かさが心の奥まで浸透する。
「どうやって人間になったの?」
「私は仕えた人に対して一度だけ人間になれるのよ。君がこれまで流した涙をエネルギーにしてね。詳しく説明するには難しいわ」
「一度だけって、今日で終わり?」
「そうね。君はもう大丈夫だから。それを伝えたくて」
大丈夫とは一体どういう意味だろう。驚きと疑問の洪水が一気にやって来て頭はパンク寸前だ。さらに薬の効き目が邪魔をする。思考がうまくまとまらない。
人には自分の力だけじゃどうにもならない悲しみに囚われることがあるの。リルはそう前置きをして簡潔に説明する。
「始め、君の悲しみの総量は限度を超えていたわ。匂いと涙の味でわかるの。でも今は——」
僕の頬を舐める。もう嫌な味はしない。リルはそう言って僕の頭を撫でた。
「あとはちゃんとお薬を飲んで養生なさい。残りは時間が解決してくれる」
僕の背中をさすりながら眠りを誘う声で語る。毎晩リルを撫でながら眠っていたが、今は僕が寝かしつけられる立場みたいだ。
「あ、あのさ」さっき言えなかった言葉を言わなくちゃ。
「別れた恋人に怒ってくれてありがとう。リルがあんなに怒ってなかったら僕はきっと彼女を……」
「ああ、あの女ね。あまりにも腹が立ったから噛み殺そうと思ったけど君が必死に止めるものだから」
意地悪な笑みを浮かべるリル。きっと天使の類ではないのかもしれない。
「あの女は二度と君に近づかない臭いを発したよ。彼女が最も恐ろしいと思うものを見せつけたからね」
もしかして悪魔ではないかと頭の片隅によぎったが、僕にとってリルはリルだ。こんな不思議な体験、考えたって答えは出ないに決まっている。
「悲しみの匂いを見つけたの」リルは呟く。
「次はその人のところに行ってあげなくちゃ。君と眠る最後の夜になるのはすごく寂しいけれど」
有無を言わせない口ぶりだった。
「また会えるかな?」
「会えるとしたら君が悲しみで消え入りそうな時ね。複雑な心境よ。できれば避けたい」
僕の首筋に顔を埋めたリルの吐息はどんな精神安定剤よりもしなやかに心を解いていく。急激な眠気に襲われて意識が途切れ途切れになる。背中をさするリルの手が僕を溶かしていく。
「リルって名前、とても好きよ」
子宮にいる錯覚に陥る。水中に似た浮遊感。くぐもった声が鳴り、やがてそれは音に変わっていく。慈愛が空間全体を包容し安寧に満ち満ちている。今、このベッドは聖域に限りなく近い。
「君の笑顔も、もうすぐ……」
意識は強制終了した。
眩しい朝日が差し込み、目を覚ました。
昨夜の出来事は夢か幻覚だったのだろうと周囲を見渡し、現実を思い知る。
リルはやっぱりいなくなっていた。
主人を失ったベランダの丸椅子が喪失感を際立たせる。
もしかしたらまだ近くにいるんじゃないかと慌てて外に飛び出すが、それも徒労に終わった。
アパートに戻り、ベランダの丸椅子に腰掛ける。リルはここで光を浴び、空の匂いを嗅いでいた。エメラルドの瞳で道ゆく人々を眺めながら。
「すみませーん」
目前を歩いていた女性の声に追憶は中断された。彼女はぎゅっと少女を手を握っている。きっと親子だろう。母親とお揃いのダッフルコートがとても可愛い。
「そこに飾ってあった絵画は売れちゃったんですか?」
「絵画?」
「美しい緑色の目をした妖精の絵です」
あの絵画を見ると優しい気持ちになれましてね。この子を保育園に送りがてら、見るのを日課にしてたんですよ。
「ママ、違うよ。大っきい猫ちゃんだよ!」
手を振るとニコってしてくれるの。猫が笑うなんてびっくり。
ああ、そういうことか。昨夜体験した不思議に比べればすんなり受け入れられた。
「あの絵画のタイトルは『リル』って言うんです。フランス語で笑顔。必要としている方に譲りました」
少女にも告げる。
「大っきい猫ちゃんも『リル』って名前なんだ。野良猫なんだけど、どこかへ旅立ったみたい。見つけたら教えてね」
ちょっとくらいの嘘もいいだろう。
僕にとってリルは金色の犬だったし、最後は人間だったよ。
みんながそれぞれのリルを見ていた。それがなんだか可笑しくて、僕は笑って親子を見送った。