再生の儀式【短編小説】

 彼は今日も眠れない。なにか成さねばならないという一日の終わりは、結局なにも成せぬままベッドの中でくすぶっている。寝つきの悪さは日々、悪化の途を辿っているようだ。
 カーテンからのぞく薄い隙間が白々しい顔で、今日から抜け出せないままでいる彼に明日を放り投げてくる。
「眠れないなら眠くなった時に寝たらいいじゃん」
 そんな無責任な言葉を何度聞いただろう。そしてその次に続く声はこうだ。
「どうせ明日も休みみたいなものなんだからさ」
 確かにそうだ。他人から見れば彼はただの怠け者に見えているに違いないし、永遠に自由な時間を持っていると思われているのかもしれない。もちろん皮肉として。
 この三年で彼はおかしくなってしまった。ありがちな人生のつまずきから始まり、ゆっくりと、でも確実に下降の歳月を味わった。精神は不安定になり、手持ちの金もみるみる減った。そして友人たちもまた然り。残ったのは自己肯定感を満たすために時折、アドバイスと言う名の刃物で切り付けてくる者。
 このままではいけないことくらい頭ではわかっているのに、慢性的な脱力感と倦怠感が連れ立って歩く。そいつらはとても馴れ馴れしく、片時も彼から目を離すまいと目くばせをし合っている。


 気が狂いそうになる一歩手前ふと、彼はあることを思いついた。パソコンを開き、思いつく限りの呪いの言葉を打ち込んでいく。次第に文章にしなくては殺されてしまうかもしれない強迫観念に取りつかれ、ひたすらにタイピングする。
 そうしている時間は両肩に居座る脱力感も倦怠感も面白がって邪魔をしなかった。
 許せないこと。恨んでいる人。ろくでもない社会。上手くいかない人生。
 溢れ出す悲観的な言葉の羅列が今の彼の輪郭を浮き彫りにした。


 幾日もこの儀式は続いた。
 ありとあらゆる罵詈雑言を彼は刻みつけた。非生産的な行為が癒しを生む。快楽に変わる。そして核心に迫る。
「いよいよ人として終わってきてるね」
「現実逃避、気持ちいいかい?」
 肩越しからささやく声が聞こえる。アドバイスを語っていた者はいつからか辛辣な言葉を吐くようになった。あきらかにこの儀式をやめさせたがっている。
「死んじゃったほうが楽だよ」
「見てるだけで恥ずかしくなっちゃう」
 そうしたやり取りの繰り返しに虚しさを覚え、彼は気づかない振りをするのをやめた。この声は紛れもなく自分の声だ。出来ない理由、やらない理由を肯定するために作り出した幽霊。見方を変えればこれ以上傷つかないように免罪符として存在した守り人。
 そろそろ成仏させてやらなくちゃな。吐き出す呪いは世界を罵倒したのち、すべて彼に帰結する。彼が嫌悪していたのは結局彼そのものだった。そうした回りくどい作業を経て、再び血が巡る温かさを僅かばかり感じた。


 暗闇の中にこそ自身を照らす火種が見つかるのかもしれない。明るい場所ではきっと見つけられないもの。望んでここに辿り着いたわけではないが、やむを得なかったのも事実。
 彼は歪んだ言葉の光で荒廃した彼の世界を燃やすつもりでいる。経験した不条理、屈辱、痛みを武器とする。
 彼は物語を創り始める。呪詛に込めた願いの行き先はすべてが祈りだった、と文末に添えられるように。
 くすぶっていた火種が小さな炎を灯し始める。


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