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断酒344日目

昨日、”「毎日note」をやめる”と、言っておいて、もう投稿している。

「やめるやめる詐欺」だ。宮崎駿だ。いや、そんな偉大な御方と一緒にしてはならない。

まず、私の記事や食卓の写真を楽しみにしている方に対して、感謝の気持ちでいっぱいだ。

昨日の記事のコメントを読んで、大変胸が熱くなった。と、同時に、そこまで深く考えずに、記事を書いたことにちょっと反省した・・・

そして、とりあえず、「一行だけで終わる記事があってもよし」という結論に至った。

そもそも、誰に何を言われてnoteを始めたわけではないので、何を書こうがこちらの「自由」という、至極当たり前のこと気づいた。

「誰のために文章を書いているか?」他でもない、自分自身のためだ。

自分が書きたいことを書けばいい。

書きたくないなら、「書きたくないという気持ち」を書けばいい。

きっと、それが、そのときの、「書きたいこと」なのだ。

人は、言葉でものを考える生き物である。さらに、人は「文字」を発明したので、言葉で考えたことを文字にして表現することができる。これによって、頭の中にあったものを外に出すことができる。
当たり前の話であるが、これはすごいことだ。
「書くこと」「文章にすること」によって、自分が何を考えていたのかをはっきり記すことができるのだ。
もはや、書かないという選択肢はないだろう。
とにかく書くのだ。書けないときも、書けない気持ちを書きなぐるのだ。

手前味噌だが、「書くこと」の素晴らしさが、ここにあると思う。

私が以前考えたことについて、こうやって文章に残していたからこそ、悩んだときに呼び起せるのだ。

この記事が、50日前の私と、今日の私の橋渡しになっているのだ。

「書くこと」は、過去と未来の自分を行き来できる、タイムマシンなのだ。

だから、悩んだら、過去の自分が残した文章を読めばいい。そこに当時の自分の気持ちが凝縮されている。

「めんどくさい」「つかれた」「ねむい」の一行で終わった記事も、半年後に読んでみたら、何か「気づき」を得られるかもしれない。

どうしてそう思っていたんだろうか?そのとき、どういう状況だったのであろうか?

もし、今後、似たような状況に陥ったとき、解決の糸口がその一行日記から見つかるかもしれない。

だから、どんな文章も無駄にはならないのだ。

本日の夕食のメインは、鯖の味噌煮。

湯煎するだけでできちゃう、優れもの・・・(*´ω`*)



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