私(たち)が見たかった景色とは
またまたSnowMan。
念願のドームツアーもファンダムは荒れている、いや、揺れている。
下から追い上げられ、外の景色が急激に変化している環境下、【推しは推せるときに推す】はもはや合言葉ではあるが、何だか“国民的アイドル”という方向転換が生き急いでいるようにも見える彼らのステージに何を見たかったのか、場末からのお気持ち表明であり、愚考である。
東京最終日に書いたNoteもわたしのライブ感想文。これも素直な感情。
宮舘くんだけを見つめ、2階という名の天井席から愛を叫んだよ(ココロの中で)。でも、なんだろうね、このモヤモヤは。わかってるよ、好きだけを叫んでいればいいし、ファンが推しから出されたものに意見するなんてという風潮も。
ただ、「(自分が)楽しいなを追求するのではなく、相手に楽しいなと思わせたい気もちが大事。自分が楽しいを追求するのは独りよがり」と言わしめたROLAND氏の言葉を通してグループを見たとき、このところの彼らが不安というか、やっぱりチームとしての基盤だった滝沢歌舞伎に◯を打ったとき、いや、滝沢さんが退社してからの彼らがフワフワしているように見えるからだろうか。生き急いで燃え尽きてしまわないかという不安に似た考えがよぎることがある。
Jrでもアリーナツアーを組むことができるし、演舞場でオリジナル舞台の座長公演もできる。しかしながらそのキャパを上回り常に人気も売上も、何より向上し続けることがデビュー組に課せられた使命。
一方、デビューをしたいという彼らの夢はいつしかファンの夢となり、ともに歩んできた方が多いのがSnowManである、本当に頭が下がる。そんな彼ら、彼女たちがやっと叶えた夢なのに、歩みをともにしていたと思っていたのに、大きくなればなるほど、ともに歩んできたファンからみると、ズレた景色を見せられていると映ってしまうという声が多い。 じゃぁ、ファンが願っていたことって何だろう。
そもそもは6人で歩むこと。だって、雪の結晶は六角だもの。「もう少し、そばにいて」と歌っていた彼らは、とても愛おしい。
しかし現実は9人。増員後も増員前と同じ景色が見たかったように、デビュー後もデビュー前のように彼らにしかできないことを見たかった。その象徴となっているアクロバットは彼らを表すものだったから。しかしながら、過去のアクシデントによる恐怖と戦う者、成長による急な体格の変化、故障の古傷など、9人そろってのパフォーマンスでは「やらない」のか「できない」のか、デビュー時のコンセプトが立ち切れているように映る。加えて、Jr時代の楽曲も6が9に上書きされていくさまは、古くからともに歩んだファンが過去との決別を迫られているような、そんなファンダムに見えてくる。でも、パフォーマンスの変化について彼らが「やらない」と公言したわけではない。いつかまた舞台を縦横無尽に舞う彼らが見られるはず、と淡い期待を持ちながらファンは待ち続ける。彼らもデビューして4年目、個々でそれぞれ研鑚を積んできた。そんな中でのドームツアー、デビューが決まったあの場所ならきっと・・・
ところが、流れてくるツアーレポは規模に対しての構成力への課題と暗黙のルールで行っていたペンライトの扱いに対する見解の相違、度を越した暴れるようなパフォーマンスと大喜利のような歌詞変更、シャッフルした歌割が歌えない、落下物争奪中のトラブルやファンサービスで行われるボール投げと花束渡し・・・アリーナツアーの比にもならない速さで落胆の声を目にする。もちろん、自分の目で確かめるまでは流されないようにと思ったが、実際に現場では「あ、これは」と感じる場面がいくつかあり、前回のNoteの通り、花束については私も琴線に触れられたような思いがした。1番はなにかと問われたら、ドームにおいてデビュー曲のアクロバットとダンスを封印したことと、待ちわびたダンスナンバーがその場の感情の爆発とはいえ、矩を超えて暴れているようにも見えたこと。
ドームで踊るデビュー曲は見たかった景色の最たるもの。先輩のバックではなく、Jr目当てでもない、自分たちを見に来た客前のはずなのに。こちらの勝手な思い込みと言われたらそれまでだけれど。
デビュー当時のスローガンは「初を取りに行く」だった。だから、アクロバットもダンスも歌も、6人時代の色を蔑ろにする(なかったことにする)のではなく、継承し発展させて9人となった彼らの「初の」、新たな王道を目指すものかと思っていた。
国民的アイドルを目指したいと舵を切った甲斐があってか、アルバムリード曲は後期高齢者のリハビリ動画で振り真似がアップされるほど、子どもたちのバラエティ認知度も高い。地上波での露出戦略は老若男女を見事に取り込みつつある、むしろいいことだし、微笑ましいことだろう。
でも、ライブなのに私(たち)が好きなスタイリッシュなステージが常だった彼らの武器が飛び道具の扱いになってやしないか?目指していた王道ってこれなの?という募る想いが溢れてしまっているのが今回のツアー。ファンサービスはその思いが最も凝縮して投影され、子どもを親の承認欲求を満たすために利用していると思われるような一部の行動に、彼ら自身がそれを利用する構図となり、純粋にパフォーマンスを楽しみにしていたファンの気持ちが折れていく様子が綴られていく。視点を変えれば、彼女たちのほうこそ、ペンライトにこだわり、自分がここにいるよと色のスイッチを行わずに承認欲求を満たしたいのでは?と誤読しそうだが、今回ばかりはそこじゃない。
遡れば、アリーナツアーが有観客になったときもペンライトの色指定から始まり、ツアーをやるたびにファンが求めていたものから離れ、大衆化していくパフォーマンス。そうか、ドームに限ったことじゃないかも。推し上げるために片目をつぶってきた「私(たち)が好きな景色」が隅に追いやられているという思いがよぎることからの「モヤモヤ」ではないだろうか。
ファンに阿ることもないとは思う一方で、彼女たちは純粋に彼らが「守りたい」って言っていた【SnowMan】が好きだから、ともに歩み、年数を重ね、彼らに寄り添ってきたのだろう、箱でも個人でも。
福岡での公演が終わった頃に見かけた、TikTok動画に凝縮されていたあの悲痛な叫びは、彼らが見せたものと私(たち)に見えていることのズレが端的に可視化されたもの、目にして聞いたときは胸が締め付けられそうだった。
そう、言葉を借りるなら、ライブ中の彼らに親近感は求めていない、ライブで見たかったのはパフォーマンスに打ち込むことで輝く彼らであり、華やかに軽やかに、そしてしなやかに舞台を舞う彼らを見ていたいと願っていたのだ。大衆化して消費されるだけの姿は見たくない、だから拘り続けるし、声を上げ続ける。そういうことなのかなって思えてきた。私は、彼らが魅せる技量に惚れているのに加えて、そんな彼らをひたむきに応援するファンダムが愛おしいと思う。代弁したいというわけではないし、6人時代の過去は追えてもそのときの空気感を共有できていない分際で何かを知ったように語ることも、悦に入ることも目的ではない、あくまで個人感想文であり愚考だ。
ただ、タイトルを「私(たち)」としたのは、ほんの少しだけ、共感を得られたら….
私だって早く気持ちを昇華させて、彼らを楽しみに待っていたいのだ。