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7人の関ジャニ∞がくれた特別な3ヶ月と、彼らのクリエイティビティ(のようなもの)の話。


「関ジャニ∞から渋谷すばるがいなくなり、彼らは6人で今後も活動していきます。」という決定事項が通達されてから、エイターでもない私もしばらく涙し(そのあたりはこの4月のnote「これからもおきばりやす。1981年組の渋谷すばると、関ジャニ∞。」に書いた)ああこれからは関ジャニもっともっとしっかり応援しなくてはな、と決意したんだった。

卒業アルバムかい、というほど重厚なGR8ESTもしっかり購入し、今年も友人が、GR8ESTのライブツアーに誘ってくれた。「あんたはたぶん、絶対好きだから」「あなたにこそ関ジャニのライブを見てほしい」と音楽好きのエイターに何度誘ってもらっても結局行けていなかった関ジャニ∞のコアな世界を、ちゃんと経験しにいってみようと思ったのだ。

ということで、2018年7月15日からのGR8ESTツアーが始まる前に、一度、自分が感じたこと、考えたことを整理しておこうと思う。

正直なところ、関ジャム完全燃SHOWのすばるラスト、番組初となる生放送回を観て、突然、何もかもが全然わからないような気持ちに最後に襲われ、なんとかキャッチアップしようとしている、という状態が、今です。

錦戸君は最後に寂しいですねと涙し、みんなが涙を堪え、本当に美しい場面ではあるのはわかるのだけれども、「…え?あれ? で、結局なんですばるくんわざわざ関ジャニやめるんだっけ。こんな最高なバンドになってきてるのに、めちゃくちゃ勿体無くない?」という、あまりのそもそも論が、なぜか最後の最後に自分の中で湧き上がってきてしまい、心からキョトンとしてしまった。スカパラに見守ってもらって最後に無責任ヒーローやって盛大な大団円を!とか4月に泣きながら自分で書いていたが、それも見事に生放送で叶い、もうあれはめちゃくちゃ最高なシーンすぎて、すばるくん、あなた最高の場所を手に入れてるんだねと誰もが思ったことでしょう。

まあ……それほどまでに、7人での最後のテレビでの生演奏が、とてもよかった。とても頼もしく、最高な「バンド・関ジャニ∞」の雄姿だったにちがいない。

で、まあ、家ではともに見ていた夫ですら涙していたというのに。全く泣けなかった自分にびっくりしてしまった。おいおい、私、冷徹かよ と。(元々、昔から、卒業式当日にあまり泣けないタイプだったので、それが今になってまた出たか?とも思った。)

いや、でも違うのだ。なぜなら、その前の番組までは、私だって泣いていたのだ。関ジャニクロニクルでの「Heavenly Psycho」とMUSIC DAYでの「オモイダマ」は、もう、勝手に涙が出てきた。

そんなわけで、わかりやすく“アイドル”として出てくれる関ジャニには泣けたのに、バンドとしての関ジャニの最後には涙が流せなかったとも取れる気がして、自分の中でものすごく変なモヤつきというか、不思議な突っかかりができてしまった。そのことにものすごく自分で驚いてもいた。(だって大好きな関ジャム完全燃SHOWという番組で、始まって以来の生放送ですばるラストという記念すべき回で、絶対泣くなこりゃと覚悟して臨んでいたのにさ、という。)

しかしその分、さらに関ジャニ∞の本質を知らないとなんだ、とやっとわかった。そして友人が用意してくれた「JAM」と「十祭」のDVDを観た。

そこでやっっっっと、「ああ、なるほどそういうことだったのか……」とわかることが、あまりにもたくさん詰まっていた。

関ジャニ∞の10周年を記念したライブ「十祭」では、グループでアイドルを続けることの凄みというか、今の時代だからこそのバラエティもバンドも全部本気で楽しみ観るものを喜ばせるためなら何だってやろうじゃないか、という彼らの気概と逞しさが漲っていて圧倒された。

そして昨年の「JAM」ではバンド編成のパートをがっっっつりと入れ込み(コンサートの前半が全てバンド編成。大会場でのジャニーズのコンサートはオープニングからほどなくして会場中へゴンドラ的なクルマに乗ってメンバーがご挨拶に回るのが恒例だ)バンドとして伝えようとする。その潔さが、観ていてあまりに爽快。しかもそれが本当に、「関ジャニってたまにバンドもやってるよね〜」みたいなことではない。「アイドルなのに、バンドもやるからすごい」のではなく、バンドで本気で鳴らす音楽も、アイドルが見せるべきひとつの姿勢 とでも言わんばかりの彼らの本気度と演奏のクリアさが、すごいのだ。ジャンルなんてすべて飲み込んで、いま自分たちでできるエンターテイメントを本気でやることが、この時代の長く活動する“アイドル”の使命となりつつあるのか、と気づかされる。それは、今の時代どんな仕事だってそうなんだろうけれど、既存のアイドルのやり方には乗りきれず、ただそこからあらゆる手を尽くした関ジャニ∞の、ここまで積み上げてきたスタイルに胸が熱くなることしばし。気づかされることが多すぎる。

昨年のメトロックに関ジャニ∞が出たことは音楽好きの間でも話題になったが、あれは実際のところ、そんなにシンプルな「関ジャニって、バンドでもいけるじゃん!」とかそういう意味ではなかったんだな、ということが単独のライブDVDを観て非常によくわかった。

なんだかんだいって、“関ジャニ∞の音楽性”についてはかのミュージックマガジンでも特集が組まれたほどで、彼らのバンド活動やメンバーが創作する音楽のことを語られることは多くなっていたが、そういう時にどうしたって「渋谷すばる」という看板は大きく目立っていた。渋谷すばるは、“関ジャニ∞の音楽”の代名詞のように扱われる。けれども恐らく渋谷すばるにとってそれはもう、不本意なことだったんじゃないだろうかとすら、JAMまで観て、そしてこの3ヶ月いろいろ考えながら、私は勝手に納得した。

かつてのすばるバンドは、もうそれぞれメンバーが立派すぎるほどに、実力を持ち合わせているのだ。(それが、お茶の間にまで衝撃的に届いたのが、渋谷すばるラストの関ジャム完全燃SHOW生放送のタイミングだったのだと思う。やっぱり丸ちゃんのベースはかっこよくて、大倉くんはドラマーとして超かっこよかった、という7月8日の深夜。)

だからきっと、渋谷すばるが夢見ている関ジャニは、これからの関ジャニそのものだとも言えるのかもしれない。もちろん自分だってそこにいたいけれども、自分がそこにいてしまうことで、これ以上の創造性を発揮できなくなってしまうかもしれない、成長の限界を迎えてしまうかもしれない、という自己矛盾というべきか、果てしない葛藤のようなもの。

きっと、そんなものがあったからこそ、いまここで彼は、関ジャニ∞から自分だけ少し距離を置いてみようとしているんじゃないのか。

おそらく、すばる君が「6人の関ジャニ∞をよろしくお願いします」と、何度も言っていたのは、そういう意味なんじゃないのか。などと。都合よくも、今、考えている。

ジャニーズのグループが、若くてかわいい男の子が歌って踊る刹那的なグループだけではなくなってきて、つまり、ある程度歳をとっても解散もしなくなって、しかもグループは信じられないほどたくさんあって、みんないろんなことやって、もうダンスや歌や芝居だけでなく、司会にバラエティにニュース番組に農業に、と。まあ本当にいろんなことを、みんなやる。なるほどアイドルって、タッキーとすばるがまだ十代だった頃からの20年を見ても、すごく変わってきたんだなと思わされた。

いうまでもなく、関ジャニ∞だってもう、さすがに“ボーイズグループ”ではない。でも、生き様を見ていたいかっこいいおじさん達が世の中にもっと増えたほうが、いいよねえ?と思わされた(正確にいうと、彼らはまだ「おじさん」ど真ん中ではない。が、明らかに、少年ではないわけで)。もはやアイドルの業務内容は、何も自明ではなく、自分たちでつくらないかぎりそこには何も無いのだ。それを全て切り拓いてきたのが、関ジャニ∞というグループだったんだろう。

とはいえ。すばる君が「関ジャム完全燃SHOW」という番組でラストを迎えられたことの幸福。これに尽きる。

自分は、音楽をもっとやりたい、やらないといけない、と。ここからは、好きなことに時間を割かないといけない、と。それは、何かをゼロから作品として生み出すことを仕事にする人間は、いつか必ずさしかかることになるフェーズだと、私は思う。

そんなこんなで、納得ができたような、しかし全然なんだかはわからないような状態だが、彼らはまた進み始める。

彼らを見ていて自分がひとつだけよくわかった・確信を持てたこと。それは、人生において、納得ずくの、先がわかりきった道を進むことほどクリエイティブから離れたことってないよな、という事実だ。

つまり、渋谷すばると6人の決断は、もちろんいろいろな事情こそあれど、全然先の想像はつかないけれど「わからない。でもきっと、できそう」「きっとおもしろくなる」という不安とワクワクをもたらしてくれるという時点でもう、果てしなく創造的、クリエイティブなものだな、ということ。

「すばるくんは何故に多くを語らないのか、それが君の思う男道なのかい?」などとずっと最後まで私は考えていたけれど、秘めているのではなく、まだ本当に、誰にも、わからないのだ。「言わない」のではなく「まだ言葉にならない」状態なのだろう。そしてそこにはもちろん不安もあるけれど、誰も想像しえなかった素晴らしい未来が待っているに違いない。

先に書いたように、現代の「アイドル」としての責務を全うするこれからの関ジャニ∞、6人。そのDNAに確実に刻まれている音楽性やバンドとしての精神性がどう開花し、さらに進化を遂げていくのか。ますます目が離せない。

そしてもちろん、すばる君が今後どういう身の振り方をするのかだって、もちろん彼の自由だけれど、もう本当に、やりたいようにやってほしい。きっとそうしてくれるであろうし。

おかしな表現かもしれないけれど、関ジャニ∞のメンバー達を見ているとどこまでも、“小さな会社の熱き創業メンバー達” という感じがする。自分もこのメンバーに入れて、苦しい局面も最高に楽しい局面も、全部一緒に積み上げてこれたことを、全員が誇りに思っているんだ、とでも言わんばかりの、あの滲み出る雰囲気。お互いがお互い無くしては、ここに存在しえなかった、と感じていること。誰か一人が引っ張っているのではない。文字通りに全員で、一歩一歩つくりあげてきた、今立っているこの場所。彼らのあの揺るぎなさは、これまでの逆境含めそれらと対峙してきた切実さと堅実さによるのだと思う。そしてそこには“わざわざ楽器まで用いてみんなで演奏すること”への切実さも存分に含まれている。

彼らにとっての音楽、バンドという態度は、余興や遊び場ではない。関ジャニ∞が、なんとか堪えてここまでやってくるために、己のなかに問い続けながら培ってきた、確固たる軸が、バンドという形態なのだろうと、私は思う。

そんな軸から、不可欠なひとり(でも、全員が“不可欠なひとり”である)が、このさらに伸びようとする時のタイミングで抜けて、独立するという。明らかに中核を担う存在に見えるが、しっかり前を向いて、生きてさえいれば、その人とは、きっと、必ずまたどこかでともに仕事をすることになるに違いない。

ということで、結局のところ、私はこの3ヶ月でさらに関ジャニという存在の意味性を掘り下げる機会をたくさんもらい、元々とても好きだなあと思っていたグループのことをさらに知り、より好きになれたので、本当に嬉しい。

「関ジャム完全燃SHOW」(と、「月曜から夜ふかし」笑)のおかげとも言えるかもしれない。このふたつの番組は、気付けばずっと途切れず見続けてきた非常に数少ない民放の番組で。あらためてこの3ヶ月、ほかの彼らの番組を見つつも、関ジャニ∞本当にこれまでもありがとうございました としか振り返りようがなかった。

そして何より、自分と同学年のジャニーズメンバーが3人もいるのはこのグループだけだったので、本当にいつも心のどこかで、年長組のことを勝手に友人のように思い見続けていたんだなあと気付かされた。

おじさんがバンドを続けていく、ということのエモーショナルさなどもあいまって。まあ、この辺りのことは、また別の機会に。

「関ジャニ∞から渋谷すばるがいなくなり、彼らは6人で今後も活動していきます。」という決定事項が通達されてからの3ヶ月間は、これまでのすばるを知る人々にとって想いを整理するにはあまりに短かったことだろうけれど、お茶の間で関ジャニを心の支えにしてきた人間がどっぷりと彼らに興味を持つにはあまりにも十分な時間でした。

明日からはいよいよ、6人の関ジャニ∞でライブがスタートするという。これからの時間を、楽しみにしていきます。

※そしてなにより、私が彼らとのことを考えるヒントをたくさん与えてくれた友人・さやちゃんに感謝しています!

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