言葉もコトバで、コトバじゃないかもしれない。
先日、阿部広太郎さんの、無料のコピーライター講座を受けてきました。本当に勉強になる話ばかりだったのですが、その中でも、特に腑におちたというか、なるほどなあと思った話があります。
それが、「口で話すもの、書くものだけが言葉じゃない。手話も言葉である。じゃあ、ダンスや絵、写真だって言葉なんじゃないか。」
というお話です。
阿部さんは、「ダイアログ・イン・サイレンス」という、音の無い世界で、対話を楽しむエンターテイメントにお仕事で関わっていた際、「言葉が使えないって難しいですね」と、何気なく言ったそう。
そのときに言われたのが、「阿部さん、手話も言葉なんです」、と。
阿部さんは、ハっとして、確かにその通りだということで、HPのアドレス含め、すべて手話だけで表現する広告を打ち出しました。
だから、「口で話すもの、書くものだけが言葉じゃない。手話も言葉である。じゃあ、ダンスや絵、写真だって言葉なんじゃないか。」というお話でした。
言葉自体も表現のひとつ
その話を聞いてすごく腑におちたのと同時に、ひとつ疑問が浮かびました。
じゃあ、言葉ってなんなんだろう、と。
言葉もコトバだけど、コトバじゃないんじゃないか。と。
つまり、ダンスや写真だって言葉なら、私たちが普段話すときに使っていたり、このnoteを書いている言葉自体もその中の表現のひとつでしかないのではないか、と思ったんです。
実際に「言葉」という言葉を、辞書で検索してみました。
ことば【言葉】
人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味を持っているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語。
さすが、辞書。うまく言葉を言葉にしてくれています。(笑)
やっぱり言葉自体も、音声や文字による表現でしかない。
人間は、それを日常的に使っているから、発される言葉自体が本質だと思ってしまいがちなんだと思います。
例えば、芸能人や、政治家のニュースを見ていると、失言を言及する場面をよく見ます。
発された言葉自体を見てしまって、それに対してひたすら言及する。
私は、それにずっと違和感を感じていました。
言葉そのものには本質はなくて、その中に、もうひとつ言葉じゃない何かが内包されているのではないかなと思います。
もちろん、正しくない表現は、伝える側の技量不足です。
伝える側は、より伝える表現を、そして、受け取る側も、言葉自体を見るのではなくて、その中に内包されているものを受け取ることを大切にしていかないといけないなと思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?