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64「MとRの物語(Aルート)」第四章 3節 鮎の奔流・その2

悲しいお話は嫌い。そんな強い思いが作者にもし届いたなら、
その結末は変わるのか。変えるべきなのか。

(目次はこちら)

 Rは読み進めていく……、おだやかな川の水がその流量を増し、ゆっくりとしかし着実に海へと近づいていくように、結末までのページが消化されていく。きらきらと輝いていた第一巻、闇にぎらぎらと光る太陽のようだった第二巻、夕焼け染まる妖艶なダンスのようだった第三巻。とすればこの第四巻は、漆黒で不吉な夜なのか。清顕(きよあき)、勲(いさお)、ジン・ジャン、そして透(とおる)という転生者の中で、一際透の波の色は、不吉な色合いを放っている。透は日記にこう書いている。

  世界のすべてが僕の死を望むだろう。
  同時にわれがちに、僕の死を妨げようと手をさしのべるだろう。

  僕の純粋はやがて水平線をこえ、
  不可視の領域へさまよい込むだろう。
  僕は人の耐ええぬ苦痛の果てに、
  自ら神となることを望むだろう。
  何という苦痛! この世に何もないということの、
  絶対の静けさの苦痛を僕は味わいつくすだろう。
  病気の犬のように、ひとりで、体を慄わせて、
  片隅にうずくまって、僕は耐えるだろう。
  陽気な人間たちは、僕の苦痛のまわりで、たのしげに歌うだろう。

  僕を癒(いや)す薬はこの世になく、
  僕を収容する病院は地上にはないだろう。
  僕が邪悪であったということは、
  結局人間の歴史の一個所に、
  小さな金色(こんじき)の文字で誌(しる)されるだろう。

   ※新潮文庫・「天人五衰(豊穣の海・第四巻)」
          三島由紀夫著 P.224より引用、改行位置調整

 Rの心も慄えている。こんな悲しい心を、悲しい詩を、なぜここまで書き込み、誰かに読ませなければならないのだろう。これが純文学と言うものなのか。これは作者である、Mさん自身の悲しみなのか。Rは「人間の歴史の一個所」、という記述に少しひっかかりを覚えた。このような表現を、どこかで見たことがあると、Rは思った。

 そうだ……、豊饒の海、一巻、春の雪だ。

心の中でそうつぶやき、立ち上がったRにMは目をやる。Rは自室で一巻を取り、戻ってきた。ぺらぺらとページをめくる。

 Mさん、これだよね、透が言っている歴史と、金色の文字って。

一巻において、まだ学生であった本多が、親友である清顕(きよあき)と、めずらしく軽い対立をしたシーンだ。確かにそこに、「歴史」という言葉が出てくる。「金色(こんじき)の文字」という表記はないものの、「輝かしい、永遠不変の、美しい粒子」という言葉があり、それらの意味している所は近いように思えた。それは本多の、清顕に対する問いかけだった。

  ――俺はどうしてもそんな風に、必然の神の顔を、
  見るも怖ろしい、忌(いま)まわしいものにしか
  思い描くことができない。
  それはきっと俺の意志的性格の弱みなんだ。
  しかし偶然が一つもないとすれば、意志も無意味になり、
  歴史に関与するものは、ただ一つ、輝かしい、
  永遠不変の、美しい粒子のような無意識の作用になり、
  人間存在の意味はそこにしかなくなる筈(はず)だ。
 
  貴様がそれを知っている筈がない。
  貴様がそんな哲学を信じている筈がない。
  おそらく貴様は自分の美貌(びぼう)と、
  変わりやすい感情と、個性と、
  性格というよりはむしろ無性格とを、
  ぼんやりと信じているだけなんだ。そうだろう?」

  清顕は返事をしかねたが、侮辱されているとはさらさら
  思わなかった。
  そして仕方なしに微笑した。
  「それが俺にはいちばんの謎なんだ」

   ※新潮文庫・「春の雪(豊穣の海・第一巻)」
          三島由紀夫著 P.224より引用、改行位置調整

 考えてみれば清顕と勲は、そのような、「無意識の作用」によって、時代を、日本を変えてしまっていた。しかし、第三巻における「転生者」であるジン・ジャンには、そのような作用はなかった。彼女は美しさと不思議さを持つお姫様として生まれ、奔放に生き、そしてあっけなくこの世を去った。もし本多による観察が、ジン・ジャンという存在の持つ意味・意義を、変えてしまったのだとしたら、では本多が積極的に関与している第四巻・透はどのような人生をたどるのか。

 一巻を閉じ、再び四巻を開いて次の行を読んだRは、なんともいえない、暗い気持ちになった。

  二十歳になったら、僕は誓って、
  父を地獄の底に突き落としてやる。
  その精密な計画を今から立てておくこと。 

   ※新潮文庫・「天人五衰(豊穣の海・第四巻)」
          三島由紀夫著 P.225より引用、改行位置調整

どうしてこうなるの? とRは悲しくなる。歴史に金の文字を刻み、影響を与えることと、本多君を攻撃することに、なんのつながりがあるんだろう? そうやって何かを破壊しないと、成しえない何かがあるの? その先に、何が待っているの?

 キイイィン……。

という小さな音を、Rの周囲の空気が発した。目を閉じ、軽く居眠りをしていたMがその音に気づき、Rを見ると、彼女の周囲に小さい銀色の水泡のようなものが浮かび、ゆっくりと上昇していた。まるで炭酸水の入った透明なコップの中のように、銀の水泡は、次々と発生しては、ふわふわと上昇した。

「R、その泡みたいなものは一体……」

本に目を落としていたRが、ゆっくりと顔を上げた。その目には薄っすらと涙が光っている。微笑みながらRは言った。

「Mさん? 純文学ってもしかしたら、こういうものかもしれない。
 でもね、私は許せない。こんな悲しいお話は、許せないよ」

Rの顔が、強い光でもあたったかのように輝き、その髪がふわっと舞った。再び本に視線を落とすRを、戦慄しながらMは見つめる。

 何が起こっている……?
 R……、お前は一体……。

<つづく>

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