見出し画像

54「MとRの物語(Aルート)」第三章 15節 ジン・ジャン(月光姫)その2

例えネタバレになるとしても、
ラストを少しでも、引用せずにはいられない。
私が嫉妬した、M氏の極め尽くされた最高峰ともいえる文体の片鱗を、
ご賞味ください。

(目次はこちら)

「MとRの物語(Aルート)」第三章 15節 ジン・ジャン(月光姫)その2

 Rは引き続き、第三巻の読書に没入していた。苦労した一巻、二巻とは違って、どんどんページを消化していく。しかしRはその内容に、もどかしさを感じていた。まるで森の中を当てもなく小走りで彷徨っているようで、ストーリーがあまり進んでいる気がしない、どころか、そもそもストーリーがあるのかないのかさえ、Rにはわからなくなってきた。獣も何もいないさびしく暗い森を、何者かに連れまわされるような不安。たまらなくなり、RはおそるおそるMに質問してみた。

「Mさん?」

「うん?」

「こんなに分厚い本で、もう終盤まで来たんだけど、話がよく見えなくて……」

 台所のテーブルの、Rの向かいの椅子に座り、いつものようにコーヒーを飲んでいたMは、Rの手にしている本の開き具合を見た。残りわずか数十ページ、か……。それを見てMは理解した。Rは今まで読んだことのないスタイルに、困惑しているのだ。何も起こらず、何も進まず、ただ日常生活だけが、たんたんと営まれていく。本多のジン・ジャンへの思いは語られ、また本多のアクションも起こされるのではあるが、ジン・ジャンのそっけない態度と、またそれでも良しとする本多の寛容さにより、すべては平和に過ぎ去っていく。その空虚さ。それはまさに、断頭台というクライマックスに向けての、退屈な木製の階段であったのだ。「あと少し、最後まで読めばきっとわかる」、と言いたくなるのを堪え、Mはどう答えようかと考えた。一瞬迷った後に、Mは言った。

「大丈夫だ、俺を信じろ!」

「う、うん……、ごめんね」

Rはにこっと笑って視線を落とし、再び活字を追い始めた。なんの感情の起伏もなく、淡々と読み進めるRは、やがてはっとしたように顔をあげた。

「Mさん! これ……」

開いた本をこちらに向け、ある行を指さす。見るとそれは、第三巻の「滅び」に向かって怒涛のように押し寄せる幾多のイリュージョンの、最初の一つ、これまで延々とページを割いて述べてきた描写が、ぐにゃりと歪み始める、衝撃的なシーンだった。

  本多はおのれの目を矢で射貫(いぬ)かれたような衝撃を受けた。
  頭をずらして、書棚から身を引こうとした。
  そのとき背を軽く叩(たた)かれたのである。

   ※新潮文庫・「暁の寺(豊饒の海・第三巻)」
          三島由紀夫著 P.411より引用、改行位置など調整

「ここでちょっと、雰囲気変わったね。冷たい水を浴びせられた感じ」

「そう、そこが本多の大きな分岐点となる。文体からもそれが感じられるように、数ページ前から、あえて変化させている。ただの生硬(せいこう)な文体から、研ぎ澄まされ、闇に光る小刀のような文体へ。そしてそこから、俺の持つテクニックのすべてを注ぎ込んで構築した、妖しくも華麗なイリュージョンが始まるんだ。まるでオーロラのように、輝く文字が華麗に舞い散る様を、味わってみて欲しい」

Mはニヤリと、不敵に笑った。そんなMの、挑むような笑みを初めてみたRは、息を飲み、大きく目を見開き、ぱちぱちと瞬きした。Rは嬉しかった。これはMによる、私への挑戦なんだ。私はその挑戦状を受ける資格を得たのだ。そして幻想の中のステージで行われる、MとRとの魔法合戦、きらめく甘美なディナーパーティーが、今開始されるのだ!

「うん!」Rはゆっくりと、しかし力強く頷き、再び小説に目を落とした。

 Mの言った通りだった。文字が輝き、魔法のように立ち上がり、美しい映像が、Rの脳裏に形作られた。シーンが次々と高速に切り替わることで、緊張感を生み出していた。それは映画で言う所の「モンタージュ」という技法であったがRはその技法の名前も知らないまま、純粋にその効果に驚嘆し震えあがった。これに比べれば一巻、二巻での「美しい」描写など、まるで子供騙しのように思えた。また三巻の一見退屈だったシーンも、すべてがこの数ページのために、用意されていたのではないかと思わせた。すべてが今、意味づけられたのだ。脳裏には、複数のイメージが重なり、感情をぎゅうぎゅうと刺激する。文字の持つパワーとは、ここまで高められるのかと感動を覚えながら、描写される「滅び」を、一気に読み進めていく。それは「滅び」をテーマとし、美しく構築された「詩」。またそれは白亜の建築物、華美壮麗な白銀のアートだった。

  二階の根太(ねだ)の
  落ちるらしい轟音(ごうおん)が家(いえ)うちに起り、
  ついで、外壁の一部が焔に引き裂かれて、
  火に包まれた窓枠がプールへ落ちた。
  火の煩瑣(はんさ)な装飾が、落ちてくる黒い窓枠に、
  一瞬シャムの大理石寺院の窓の幻を与えた。
  水しぶきと共に、窓枠は煮えたぎるような音で
  あたりの空気をつんざいた。
  人々はプールの傍らから飛びのいた。

  次第次第に外壁を失ってゆく家は、
  燃えている巨(おお)きな鳥籠(とりかご)のように見えた。
  あらゆる隙間(すきま)から
  繊細な焔の襤褸(らんる)がはみ出し、ひらめいていた。
  家は息づいていた。
  焔の中心に生命の実質の深く激しい
  気息(いき)の源があるかのようだ。
  
   ※新潮文庫・「暁の寺(豊饒の海・第三巻)」
          三島由紀夫著 P.419より引用、改行位置など調整

 滅びの描写はさらに、これでもかと言わんばかりに続いた。言葉によるすさまじい暴力、破壊というものは、この大火と同じだ。人はその威力の前に、なすすべもない。焼かれて軽く吹き飛ばされる、紙切れだ。そんな無力に、Rは知らず知らずのうちに泣いていた。ぽた、ぽた、と、テーブルに涙が落ちる。いや……、無力感だけではない。さまざまな感情が、今Rの中を、かき乱していた。そうなんだ……、これが文学なんだ……、文学ってすごい……。Mさんは、本当にすごい。

 巻末の解説も含めて、すべて読み終えた……。Rは、ぱた、と本を閉じたあと、テーブルに顔をつっぷして、時折身体を震わせながら、余韻を味わっていた。あまり小説など読んだことなかったRだけれど、これだけはわかった、この本、豊饒の海、第三巻が、ニッポンイチの小説だと。

 あ……、そうだ。

Rは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげ、小説をもう一度手にとった。

 お父さんも、第三巻は綺麗に読んでいたけど、
 私が読んだあとも、同じくらいに綺麗だね。
 なんでだろう、一巻と二巻は、あんなにぼろぼろなのに。

 たぶんそれは……、色々あるとは思うが、
 プロットの複雑さが、一巻、二巻ほどではないからだろう。
 突然挿入される、テキスト中テキストもないし、
 時間をさかのぼって明らかとなる事実もない。
 あとは、一巻、二巻はほぼ、本多は脇役だったが、
 三巻からは本多が主人公だ。
 円熟した性格の、本多の目を通した描写による、
 文体の安定感も、あるのかもしれないな。

 文体の……、安定感?

 うん……、文体の安定感とは、それを描写する主体の、
 心の安定感を、表現するための一つの手法だ。
 これは俺が編み出した、一子相伝の秘奥義なんだが、
 Rになら教えようかな?

 うん、お願い!

 (中略)
  ※作者註・「文体の安定感」については、
   有料版にて詳しく書かせていただきます。
   申し訳ありません。

あらたなMの持つ技法も学び、すっきりした所で、Mが「今回の読了のご褒美」に話題を移した。

 実はね、今回のご褒美はもう決まってるんだ。

 え! デートじゃないの? デートがいいのに!

 まぁ、デートがいいなら、それも込みでもいいけど、
 それよりこれだ。

Mはそう言って、ポケットから小さくて高級そうな箱を取り出した。

 なにこれ……。

それは第三巻でも重要なアイテムとして登場した、エメラルドの指輪だった。かわいい感じの、軽いエスニックな模様が入っていた。

 本多がジン・ジャンに送った指輪は、
 もっと骨董的価値も、アクセサリー的価値もあるものだったが、
 これもかわいいだろ?

 うん、私がジン・ジャンで、Mさんが本多くんだね。
 ありがとう、すごくうれしいよ!

Rは小箱を両手で持ち胸に引き寄せ、顔を伏せた。その目から再び涙が、ぽたぽたとテーブルに落ちた。Mは黙って、そんなRを優しく見つめていた。

<つづく>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?