76「MとRの物語(Aルート)」第五章 8節 豊饒の海
たぶんこれが、事実上の「第一部・最終話」。
ちょっと煮込みすぎた気もするけど、
この凝縮された、ニツメのような、
漆のような文体こそが、私本来の持ち味なのだ!(くわっ。
その日、Rは帰宅するとすぐにノートPCを起動して、「未来の可能性」、というファイルを作り、メモ帳で開いて書き込み始めた。
私の未来の可能性
(1)ビットコインで大儲け(無理
(2)Mさんと一緒に小説を書いて大儲け(難しい?
(3)コンビニのアルバイトに復帰(これがいいかも?
(4)アカデミーでシナリオの書き方を学ぶ(楽しそう
(5)結婚して裕福な家の奥様に(絶対無理
(6)ニートになって太る
(7)宝くじを当てる(無理
「他には……」Rは人差し指を唇に当て、考え込んだ。MはそんなRを黙って見守っていた。「そうだ!」
(8)Mさんしか知らない話をマスコミに売る。
(9)Mさんを騙(かた)ってネットで大暴れ。
(10)Mさんと結婚して幸せな家庭を。
「おい……」Mが思わず突っ込みを入れた。「大丈夫、大儲けとか、幸せな家庭とかあんまり興味ないから。ただのネタだよ」
だが、Rは真剣に考えてはいた。過去を変えることが出来ないなら、今を精一杯頑張って、未来を少しでもいいものにしなければなのだ。過去に戻って書きかえられる運命なんて、つまらない。一度しかないこの瞬間だから、がんばらないとなのだ。
そうだ……、R……。
そういう考え方、どこかで見た気がしたが、
フリードリヒ・ニーチェの、
「永劫回帰(えいごうかいき)」、という思想に似てる。
ニーチェは哲学者にして思想家。小説家でもある。
彼はキリスト教で語られる、「天国」、「地獄」、
に懐疑的で、神を批判したことでも有名だが、
死んだ後の幸せ、「天国」を夢見て幸福感を得る人を批判し、
彼は「永劫回帰」を唱えたんだ。
「永劫回帰」とは永遠に回る、メリー・ゴーランド。
今生きているこの瞬間を、人は未来永劫、
何度でも繰り返す。
だから人は、瞬間瞬間を大事に生きねばならないのだ。
Rのさっきの考えは、それに似てるよね。
「うーーーん、よくわからないけど、近い気はするね」
うん。
過去をくよくよと悩むよりも、
人は未来を良くするために、がんばるべきなんだ。
そのために何を選ぶか、よく考えるんだ。
「うん」
Rはよく考えた末に、「(4)アカデミーでシナリオの書き方を学ぶ」、という未来を選んだ。できたらあの男子と同じ学校に通いたいな、明日パンフレットを見せてもらいながら相談しないと、とRは考えた。
帰宅した母親に、Rは自分の考えを伝えた。母は少し不安げな面もちで聞いていたが、聞き終わってにっこりとほほ笑んだ。そのうれしそうな顔を見て、Rもうれしくなった。
「お金は、大丈夫? 私もアルバイトはするけど」
「うん、Rががんばるんだったら、お母さんもがんばるよ。二人でいい未来にしようね」
「うん」
こうして、Rとその母親の、未来改造プロジェクトが始まった。そのプロジェクトには恐らく、例の図書館の男子や、クラスメートのメガネっ子も、巻き込まれるのだろう。でも、だからこそ人生は楽しいのだ。運命は輝くのだ。いろんな人が助け合い、がんばって何かを成し遂げる。そんな未来がきっとくる、とRは思った。
その頃……。
「あの世」において、女神は、「阿頼耶識(あらやしき)」の記憶をサーチし、自分の、そしてMとRの未来を理解し、愕然としていた。「Rちゃんが……」、と女神は力なく呟(つぶや)いた。未来に女神を打ち滅ぼし、新たな日本の神になるのは、Rだとわかったのだ。さらに衝撃的なことに、MはRの側につき、女神の「滅び」を早める役目を果たすであろうことであった。
M……。
女神の頬を、金色の涙が伝う。女神にとって辛うじての救いであったのは、Rが「地獄門」を使ってこの宇宙を崩壊に導こうとは恐らくしないであろうということ、また、あの不可思議な技、「鮎の奔流」とやらを使い、未来であれば簡単に変えれるであろうことに、気付く気配がなさそうであるということだ。もしそんなことが起これば、未来はどうなるかわからない。あの「もう一人のR」が警告したような未来が、絶対に起こってしまう。今はRがその可能性に気づかぬことを、女神は祈るばかりだった。
Mはベランダに立ち、月を眺めていた。「豊饒の海」という作品が、わずかな傷はあるものの、(いや、その傷も実は計算して入れてあるのだが)、書き直すほどでもない。新たに「第五巻」を書くほどでもなかった。だとしたら、自分はなぜここにいるのか、と思わないでもなかったが、やはりそれは、俺が望んだことなのだろう。俺は夢に現れた、「未来から来た」少女Rに心惹かれ、彼女との再会を望んでいた。今、それがかなったのだ。ならば……、その夢が成就した今、俺はどうするべきなのだろう? いや、そう自分に問うまでもない。俺はこのまま、Rとともに生き、Rが五衰していく様を見届けよう。そうやってRが老いて、この世を去らねばならなくなった時……。これまでは「荒御霊(あらみたま)」であった俺も、Rとともにあの世では「幸御霊(さきみたま)」となり、生まれたままの姿でRと抱き合い、幸福に生きていけるのだろう、そんな気がする。Mは一瞬遠い目をした後、再び月を見た。豊潤なまでの黄色に満たされた今夜の月は、まさに「豊饒の海」に満たされているに違いない。それは空虚な海ではなかった。その名の通り、「豊饒の海」だった。
不吉なまでに美しい金色に輝く月は、Mと、日本と、地球を照らしていた。Mはその輝きに「豊潤」を見たが、果たして本当にそうなのか。金色の月の背後で、見えない影がちらっとよぎった。それはなんらかの「意志」であった。
常夜灯に照らされた部屋の布団で身を固くしていたRはその「意志」に気づいたかのように、月に向かって顔を傾けた。布団から右手だけをそっと出し、月が存在しているであろうポイントに向けて人差し指を立て、Rはつぶやいた。
鮎の、奔流。
月の背後に潜む「意志」がたじろぎ、Rを見据えた。Rの唇が微笑み、その片目が赤く光った。