「旅行者の朝食」を読んで
確かに本の大筋は捉えているけれど、「あらすじ」という役目を与えられたスペースで著者の渾名地味な特技の説明に半分も費やすのはどうなんだ。一応「食べ物」というテーマで繋がっているものの、ツバキ姫云々の話は結局、作中でほんの三行語られるだけ。よくわからんが、あらすじを書いた人にとっては、この話がめちゃくちゃツボだったのかもしれない。
文庫本のカバーには基本、本の著者について簡単なプロフィールが載っている。でも僕はあまりそこに目を通さず本編を読み始めてしまう。僕はある程度文章を読んでから、それをどういう人が書いたのか、という順番で知っていくのが好みなので。だから僕は読んでいる時点で米原万里という人を全然知らなかった。
作者がロシア語の通訳をするシーンの回想から始まるから、ロシア語通訳の仕事をしていたんだな、というのはなんとなく分かる。「卵が先か、鶏が先か」というプロローグ的な章を読んで僕が著者に抱いた印象は、単に「ロシア語が話せるエッセイスト」という感じだった(それでも十分すごいけど)。
でも、次のエピソード「ウォトカをめぐる二つの謎」に差し掛かったあたりで、ロシア語ができるだけの一般人にしてはなんだか歴史・文化的な含蓄にすごい富んでるな…と感じて、それで著者について興味が湧いた。
僕が知識も素養も無いアホな若者だということを差し引いても、この人やたら文献を引用してるし、やたら色んな国の事情に造詣が深い。普通に難解。僕はお世辞にも異国文化や歴史に詳しい人間ではないけれど、大概のエッセイってもっとこう、軽いスナック感覚で読めるものだと思っている。
カバーの著者プロフィールに戻ってみると、どうやら米原万里という方は東大のロシア文学関係の修士課程を修了されたのち、ロシア語通訳協会の初代会長を務めておられたとのこと。ひっくり返るほどすごい。バキバキの権威。
プロローグを読み返してみると、確かにロシア語通訳をするシーンがあるけれど、それは「北方領土に関する国際セミナー」での一幕だったらしい。舞台がでかすぎる。
ということで、すごい人だった。
そこで、もう少し背筋を伸ばしてというか、「これは流し読みではいけないぞ」という風に姿勢を改めて読むことにした。米原さんくらい賢い人からしたら鼻で笑われるかもしれないけど、僕のように異国の世界史・文化史の教養を著しく欠いた人間にとっては、とにかくそういうことが必要だったのです。
「旅行者の朝食」は近所のブックオフで偶然見つけたのだけど、これ以外にも米原さんはロシアに関する色んな小説・エッセイを書いていて、それが五冊くらい並んでいた。それを、「この人はずいぶんロシアが好きなんだなあ」とアホな若者がなんとなく買い求めたわけ。
ただ、後半になるにつれ、2~4ページくらいの、前半に較べるとボリューム小さめの話が多くなってくる。
それくらい短いと自ずと話も分かりやすくなるから、背筋を伸ばす必要もない。それはもうスナック感覚でサクサクと読めたのだけれど、前半の重厚さに慣れてしまうと、少々の物足りなさを覚えるかもしれない。
いや、言ってしまおう。前半に較べて後半の話はやや退屈だった。文化を掘り下げる熱量は途端になりを潜めて、読みやすいショートショートばかりが並ぶようになるから、こちらとしては「おい、前半のパワーはどうした!」と言わざるをえない。それでも、「蘊蓄を傾ける」というコンセプトなら、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
僕がまず印象に残ったのは、著者の食に対する熱量。執着と言ってもいいと思う。異常とまではいかないが、食べ物への探求心が今の一般人よりは相当にある。
たとえば、著者が家庭の事情でプラハの小学校にいた際、ロシア人のイーラからもらった「ハルヴァ」というお菓子の虜になって、それを探し回る話(「トルコ蜜飴の版図」)。これがなかなか見つからない。似たようなものは偶にあるけれどあの時の味にはどうしても劣る。著者が諦めかけていたある日、当時の友人がアテネで買ってきてくれたハルヴァを食べて、ようやく目的の味に辿り着ける——著者の体験としてはそんな流れ。
作中に具体的な月日は記されていないけれど、アテネのハルヴァを食べたのが、この話が書かれた年(1999年)の20年前らしい。著者が1950年生まれだから、だいたい29歳の頃。初めて食べたのが小学生だから、少なくとも17年経過している。
小学生のときに食べたお菓子の味を二十年近く覚えていてそれを積極的に探し続けることなんて、あんまりないんじゃないか。
ハルヴァを買ってきてくれた友人も、
と語っている。小学生のときに食べた(しかも一口だけ)お菓子について、十数年間、「いつも」他人に力説しているらしい。どんだけ美味かったんですか。
ただ、さしもの著者も「小学生の頃のあの味が、自分の中で美化されているのでは」という危惧は抱いていたようだった。当然だ。僕だったら絶対に覚えていられる自信がない。
しかし、アテネのハルヴァを食べたとき、
と断言している。すごいよ。ほとんど美味しんぼじゃないですか。じっさい、「これに比べると山岡はんのハルヴァはカスや」みたいな感じだったんだと思う。ほんとうに。
僕はあまり味に敏感な方ではないから、こんな話を聞くたびに舌の記憶力と熱意がすごいなあと感じるのだけど、この話の著者ほど執着することってやっぱりあんまりないよなとか思うのです。僕は小学生のときに食べたものの味なんて何一つ覚えていないし、塩辛さと甘さの違いくらいしか分ってなかったような気がするな。皆さんはどうでしょう。
他に印象に残った話は、「サンボは虎のバター入りホットケーキをほんとに食べられたのか?」という話。タイトルがもう面白い。もちろんこれは有名な絵本「ちびくろサンボ」に関しての話なのだけど、テーマが「サンボは何人なのか?」から始まって、サンボがじっさいに絵本のようなホットケーキを食べられたのかというのを検討していく。
サンボは、見た目は完全にネイティブ・アフリカンなわけだけど、アフリカ大陸や中南米の食生活にホットケーキは無い。とするとホットケーキ(パンケーキ)文化のあるイギリスの植民地か、あるいは中南米の中でアメリカ文化の影響を受けた地域に限られる。しかし今度は、肝心の虎が生息していない——。
「物語を現実に当てはめて考える」という空想科学読本的なコミカルさも面白かったけれど、個人的には、この考え方自体がとても参考になった。確かに「虎が回ってバターになる」というファンタジー部分を除けば、絵本といえどそこに風土的な背景というか、話が出来上がった根拠や流れのようなものがあるはずで、こういう考察は、自分でやってみても面白いかもしれない。そういう観点から、印象深い話だった。
グルメエッセイという形式上、もちろん「旅行者の朝食」は食べ物の描写に溢れていて、詳細なレシピもちらほら記されている。けれど僕は、そういうものを読んでもあまり興奮しなくなったというか、一生懸命想像することをしなくなった。
何が言いたいかというと、昔よりも文章から情景を思い浮かべる力が弱くなった気がするのだ。
先日読んだ新聞の中で、歴史的な文献とかをテーマにどこかの教授が語っていた。その教授は収集にとても熱心で、「文献などの説明だけでは満足できず、当時じっさいに使われていた紙だとかを手に入れないと不安でたまらない」らしい。けれどそのことについて、ある学生に「あなたは老いたせいで想像力が衰えて、欲が強くなっただけじゃないのですか」みたいに言われてしまう。うろ覚えだが確かこんな話だった。
「なんてひどいこと言うんだこの学生」と思ったし、今も思っているが、確かに人って老いるとそうなっていくのかもしれない。自分は老いるというにはまだ早すぎるけれど、その片鱗が見えてきているようで、少し怖かった。
過去の体験談中心のエッセイを読んでいつも思うのは、「よく覚えているな」ということ。僕が人一倍、身に起った出来事を忘れっぽいのが大きな理由なのだけれど、こういう人達は、どこに記憶を仕舞っているのだろうといつも思う。
多少の脚色はあるかもしれないけれど、ディテールは細かいし、そのときの感情だって色鮮やかに描写している。「旅行者の朝食」もその例に違わないし、グルメがテーマなだけあって、味の感想もすごく雄弁だ。僕は一昨日食べた夕飯の味どころか、何を食べたかさえ覚えてないのに。
先日、「旅行先であまり写真を撮らない」と言ったら驚かれた。友人が映った写真とかは撮るけれど、景色だけでは撮らない。「撮って何するんですか」と聞いたら、「後で見返して懐かしむ」と言う。いや、それなら、ネットに転がっている写真で十分じゃないか。聞けば花火の写真なども撮るらしい。花火なんて特に、スマホの扁平なカメラで撮ったって仕方ないだろうに。
心の中で一蹴していた僕だったが、これについては、自分の貧相な記憶力に責があるのではと最近思い始めてきた。
たぶん写真を撮っている人たちは、僕よりもよっぽど多くのことをその一枚から思い出すのだ。ネットの写真でいいじゃないかと僕は言ったけれど、同じものを撮っても、もちろん撮る角度とかは違ってくる。そして、そういう微妙な角度とか明度とかのニュアンスから、無意識に自分がそれを撮っていた瞬間の情報が引き出されて、そこから連想して色々な出来事をありありと懐かしむことができるのだ。
僕にはそれができない。自分や友達が映っていたり、そういうわかりやすい情報が無いと記憶を引っ張ってくるのが難しい。だからつまらなくなって、いつしか写真を撮らなくなったのかもしれない。写真を撮らない人の中には、「写真なんて撮らなくてもすべて覚えていられる」という人もいる。というかそっちの方が多いような気もする。
忘れっぽい僕からすると、米原さんのように、過去の体験が鮮やかに浮かぶ人が羨ましい。僕はもう既にずいぶんと忘れてきてしまったけれど、食べ物でも何でも、ずっと後に思い出せる生きた体験としてそれを覚えておけることは、すごく素敵なことだ。
ブックオフでは米原万里さんの著作を他にも数冊手に入れたので、それらも期待して読んでみたいと思う。