能登半島地震 私の記録

令和6年1/1 16:10頃
能登半島地震は発生しました

私は、夜勤明けで実家のある輪島に向かい、
13:00頃到着
家で家族と普段通り過ごしていました

16時頃大きな揺れがきたので、母・姉妹は外に出ており様子を伺っていました
父は2階で横になっていて、
16:10の大きな揺れがきました

大きな揺れは、立っていることもできず
私たちは、3人で身を固めてしゃがんでいました
瓦は落ちてくる、ガラスは割れて、電線は斜めになってぐしゃぐしゃ
もう、死んでしまうダメやと思いました

揺れが収まり、母と父の確認を急ぎました
怖いとか言ってる場合ではありませんでした
父が2階にいるのはわかっていたので
裏口に走り、大声を出して「お父さん‼︎はよ、表から出て‼︎」と父も脱出

津波が来ると言ったので、
港町に住んでる私たちは、必死に車で海から離れて、知り合いの川沿いのビルに逃げ込みました
他にも高齢者、子供
多くの人がそのビルの屋上を目指しました

上から、川の様子を見ていると
川底が見えるくらい水が引いてて
これは、絶対津波来るんじゃないかと思いました
怖かったけど、高齢者、泣いてる子もいたので
私は「大丈夫や」と言うことしかできなかったけど、声かけしました。
その間に川向かいで火災が発生し、どんどん燃え広がるのを目の前に見て
本当にこの世が終わったわと思いました

5m来ると思っていた津波は
1m20cmでした。2〜3時間くらい屋上にいて
危険とはわかっていたのですが
ずっといるわけにもいかないので移動しました

道は、隆起・陥没していたので
車でしか移動しない距離を大荷物で移動
いつもは家族全員こんなに歩かないのに
ふと、空を見ると星がとても綺麗で
あー、私たちはこんなことになっているのに
空や星は、不変的なんやなと改めて感じた

一夜明け、とりあえず悲しんでもいられないので
一旦家に帰り貴重品など、取り出しに行きました。
家の池を見ると、3匹の鯉は水が干からびて
悲しいことになっていました...ごめんねと手を合わせて

1日目はとても怖くて
けれども2日目からは、そんなこと言っとられんと、一生分くらい家のことをしたんじゃないかと

住むところもダメ、実家の食品加工場もダメ
ダメダメばかりやけど
家族が無事でそれだけで、救われた

私が自身が被災したことを
書こうと思ったのは
私の感じたことのキロク
そしてリアルを発信したい
この先良い方向に向かう
能登を見ていただきたいと思い
noteをはじめました

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