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NAの年代史 Never Alone (http://na12.org/ )A Chronology of NAより


1944
 アディクトのための12ステップ・フェローシップについての最初の記録が残っている。

1947
 回復中のアルコホーリクのヒューストン・SがP.H.S病院のビクター・ボーゲル医師と話をしている。彼は12ステップがアディクトにも効果があると信じていた。病院に対して、院内でグループを作るように依頼している。2月16日にケンタッキー州レキシントンで最初のミーティングが開かれた。ほぼ20年にわたり、毎週そのミーティングが開かれていた。彼らはその自分たちのグループをナルコ・グループと呼んでいた。
 ダン・カールソンは7度敗北してレキシントンに戻り、ナルコ・グループに参加を始めた。6ヶ月のクリーンの後に病院から退院を許された。


1948
 メジャー・ドロシー・ベリーとダニエル・カールソンはラー・ロペス婦人と共にニューヨーク市の刑務所内でナルコティクス・アノニマス(今あるNAとは関係のない同名異団体)という名前のグループを始めた。

1949
 ダンは8度目となるレキシントンへと舞い戻った。その時、彼は降伏をした。そしてナルコ・グループの活発な関係者になった。そこでのプログラムを完了して、ニューヨーク市に戻った。

1950
 同じ時期、バージニア州、Lorton連邦刑務所内で、NOTROL 12ステップ・グループが始まる。NOTROLはLortonを逆から読んだものだ。NOTROLはレキシントンにいた関係者によって作られたものであるとされている。


1950-1953
 ニューヨーク、シカゴ、バージニア、レキシントン、テキサス、カルフォルニアで、アディクト・アノニマス、ナルコティクス・アノニマス、そしてHFDという名前のグループが生まれていた。それらはお互いに無関係な独立したグループだった。それらはただのグループであり、フェローシップではなかった。唯一共通するつながりがニューヨークとシカゴのサルベーション・アーミー(国際的な軍隊式キリスト教団体)においてあったようだ。  The Key(鍵)と呼ばれるニュースレターが、バージニア州ロートン、ケンタッキー州レキシントン、テキサス、カルフォルニア州ロスアンジェルス回覧されていたようだ。The Keyの編集者の一人は1952年においてメーリングリストは90に上っていたと言っている。

1952  
 ジミー・Kが、スピーチの中で東ロス・アンジェルスにあった「アディクト ・アノニマス」について言及していて、そこのミーティングはある一人の男によって支配的だったと言っている。それはSi Malosという人物だった。また他の「アディクト ・アノニマス」のメンバーの情報によるとミーティングには市の役人も一緒だったという。

1953
 ジミー・Kの回想では、付則が書かれる前の夏の初めの4月頃に起こった6週間に及んだ議論(または論争)について言及している。ジミー・Kは地域のAAフェローシップの中で回復中のアルコホリック・アディクトとして知られていた。たくさんの偶然の出来事が起きた後に、ラビット・ミーティングが彼の家で開かれた。

 ジミーは、地元の警察の依頼によってジャック・Pが始めた回復グループの三回目のミーティングに出席した。Si Malosは一回目と二回目に参加していた。ジャックはアルコホリックで出席者が薬物を使ってよれたままでいることを理解できなかった。どうやればいいのか彼の知る方法をすべて試して見て、辞めることにした。そこでジャックはジミーに助けを求めて、ジミーは了解した。

 8月17日 「今日のNAに至った成長の記録」の最初にフランク・カーナハン、ドリス・カーナハン、ギルダ・クラウジー、ポール・ローゼンブルース、スティーブ・ライアン、およびジミー・キノンが「AA/NAグループをまとめる目的」のために顔をあわせた、と書かれている。名前はサン・フェルナンド・バレー・アルコホーリクス・アノニマスとナルコティクス・ アノニマスに決まった。

 その後数ヶ月にわたってそのコミティは定期的に集まった。彼らは付則をつくり、フェローシップがどのように機能するのかを議論した。

 9月14日 AAのゼネラル・サービス・オフィスから回答を受けて、それには「ステップと伝統を改変することはいいが、AAの名前は使うな」とあり、名前をナルコティクス アノニマスにした。

 8月31日 私たちの目的がThe Keyから引き継がれた。(レキシントン・ニュースレター、The Key を参照)(またはファースト・ミーティングのフライヤーの内容を参照)

 10月5日 新しいフェローシップとしての最初の回復ミーティングがCantara&Clybourn交差点にある「Fernando Dad’s Club」で開かれた。17人がサインしている。ステップでは「アディクション」と「私たち」という言葉が、伝統では「アディクト」と「使う」という言葉が使われた。

 12月 年末にコミティ(委員会)は解散したが、ミーティングは続けられた。

1954
 4月 ビル・ウィルソン(AAの創立メンバーの一人)がベティ・トムに手紙を書いている。それによるとどのようにHFD(ロスアンジェルスのAAグループ)とNAが自立した関係でいるかが明かされている。

 最初のイエローブック(小冊子)が作られた。内容は20の質問、NAの12ステップ、今日だけのお祈りだった。HFDとは違う二つの住所が書かれていた。

Narcotics Anonymous P.O. Box 1043 Studio City, California.

Narcotics Anonymous P.O. Box 13023 So. Eastern Station San Diego, California.

 数少ない生き残りのNAメンバーがこのブックレットのコピーを今も持っている。原稿は印刷所に持ち込まれ、プリンターがタイプをセットしたものを印刷した。そのころゴム印も多用されていた。実際サン・ディエゴのアドレスはゴム印されていた。そのアドレスは60年代のブックレットでも使用された。


1954から1959年
 “Shrier’s dryer”(Shrierという医師がいて、そこでドライ、つまりしらふになるという意味らしい) の時代。AAまたはNAはミーティングで挙手することを義務化した。(最初に「アルコホーリクは手をあげて」、次に「アディクトの人が手を上げて」、というような感じで)ジミー・Kは伝統に沿っていないと感じて、その頃のミーティングにあまり参加しなかった。主要人物のSi Malosとジミー・Kとの間に反目があった。


1955
 いくつかの節目の時間が過ぎていき、ケンタッキーで行われるセミナーに参加するためにジミーが派遣された。

1956
 ニューヨーク。この年、ダニー・カールソンが亡くなったことを期にナルコティクス ・アノニマス(今あるNAとは関係のない同名異団体)は廃れた。

1959  
 50年代が終わっていき、南カルフォルニアのNAも衰退して行った。1959年の秋の4ヶ月間NAミーティングは全く開かれていなかった。

 ボブ・Bが初めてNAを見つけた。彼の妻がアラノンに参加して、ジミー・Kの最初の奥さんのアリスに会っている。

1959-1960 ジミー・K、シルヴィア・Wそしてペニー・KがNAを再開した。彼     らはより厳密に伝統に従っていくと誓いを立てた。

1959-1962 定期ミーティングが金曜日にムーレパークにて開かれた。また     火曜日にいろいろな人の家でラビット(ウサギ)ミーティングが     行われた。ラビットミーティングはジャンプして場所を変えて      いった。


1960
 オンリー1ミーティング。
 NAの初めての電話サービスが設置された。また「何ができるか?」も更新された-ジミー・K。1960「回復とリラプス」―ジミー・Kの物語。1960「私たちは回復する」―ジミー・K。1961「私の人生の1/3」―フィル・P。1962「もうこれ以上無理」―ペニー・K。1962「悪循環」―ジーン。1962「意味のあること」―ボブ・B。1962「ある女性の物語」―ベティ・G。


1962
 はじめてホワイトブックが出版される。個人の物語はなかった。

1963
 はじめてH&Iミーティングがタハチャピで行われる。ボブ・Bは刑務所にいた。

 ボブ・Bが再び刑務所から出てくる。そしてミーティングに参加した。

 同年の夏 4ミーティング。

 サン・ディエゴでのミーティングがはじまる。初めてなのか再開したかどうか定かではない。

 ジミー・Kが、IP#5「もう一つの見方」を書く。

 サルベーション・アーミーがオハイオ州、クリーブランドにてナルコティクス・アノニマスをスタートさせる。最初のニュースレターでは13ステップだった。後のブックレットではAAスタイルの12ステップになった(「薬物」「私たち」とはなっていない)。


1964
 評議会が作られる。主要目的はNAがなくならないための解決法だった。1960年を思い返すと、「ジミーは伝統を貫くべきだ!」と語っている。評議員の役割は、始まったばかりの時代の経験から、12の伝統の守護者となることだった。その経験とは、「もし私たちが伝統を貫かないならば、一体性は崩壊してしまう」ということだ。

1965
 北カルフォルニアでNAが始まる。シルビア・Mと二人の兄弟がバークレイに引っ越した。


1966
 第二版のホワイトブック―「個人の物語」付き―が出版。 「アディクトとは?」―ジミー・K―1960。 「NAのプログラムとは?」―ジミー・K、シルビア・W―1960。 「なぜ私たちはここにいるのか?」―ジミー・K、シルビア・W―1960。 「どのように効果があるのか?」―ジミー・K―1960。 

 10ミーティングのフェローシップが存在した。

1967
 ルイジアナ州アンゴラの刑務所内で、ナルコティクス アノニマスが始まる。ニュースレターが発刊される。


1967-1968
 ゼネラル・サービス・オフィス(GSO)の前身となるものが、ビル・Bの理髪店で始まる。今でいうリージョナル・コミティに似たものだ。評議委員及びGSR(グループの代表者)は共に毎月集まった。これは今でいうところのリプリゼンテーティブ・サービス・コミティ(RSC)だ。


1968
 ジミー・Kが、NAのシンボルをデザインする。その時彼は結核と闘病していて入院中だった。


1969
 「サービス機構の予想図」が承認される。この年のうちにGSOの前身が付則を受け完成された。


1970
 世界中で20ミーティングが存在する。まずステップと伝統についての部、そして第3部は「私たちは必ず回復する」が一般的に各グループで読まれていた。


1971
 第一回WCNA LaMirada カントリー・クラブで行われる。シルビア・Mがスピーカーをした。


 南カルフォルニアのサンタ・バーバラから、サン・ディエゴまでのミーティング・リストができる。

 NAのWSOの最初の場所、1-10の2325 Crenshaw Boulevardの黄色の建物 、ボブ・Bが住んでいたアパートにできた。店先がWSOだった。


1972
 世界で三カ国、19州に70ミーティングが存在する。ドイツ、オーストラリア、バミューダ、カルフォルニア―57、ペンシルバニア―6、ミネソタ―3、ニュージャージー―2、ニューヨーク―2、ワシントンD.C.―2。

 AAが、ジミーにAAの「私たちには責任がある」を改変したお祈りを使わないように、と伝えてきた。そしてジミーはNAの「感謝の祈り」を書いた。

 第二回WCNA ハリウッド、スタジオ・シティ、Elksクラブで行われる。

1973
 サン・フェルナンド・ヴァリー・エラのサービス・コミティができる。ジミーはリプリゼンテーティブ・サービス(NAの代表者としてのサービス)の構造について語っている。ジミーはまた、四年前に書かれた「サービス機構の予想図」から、NAのサービス原理を読んでいる。

 第3回WCNAがカルフォルニア州サン・ジョゼで行われる。

 8月18日NA20周年記念の祝宴が開かれた。

1974
 WSOがハリウッド、ハイランド・アヴェニューに引越しをした。ホワイトブックが刷新される。

 ゼネラル・サービス・オフィス(GSO)がロス・アンジェルスにできる。

 WSOがカルフォルニア州Van Nuysの自殺予防センターに移される。その6ヶ月後にWSOはまた引越しをして1982年までジミー・Kの家にあった。

 第4回WCNA カルフォルニア州アナハイムで行われる。

1975
 海賊版のNAホワイトブックが北カルフォルニアで出回った。緑か灰色の表紙だった。

 第5回WCNA カルフォルニア州サンタ・ローザで行われる。

 初代NAツリーの発行が承認された。これは私たちのサービス構造について書かれた初めてのガイドだった。

1976
 ホワイトブックの「個人の物語」が変更された。「ある一人の女性の物語」が削除された。「私は違っていた」―グレッグ・P―1976。 「ふとったアディクト」―ビル・B―1976。 「おびえる母親」―ベティ・K―1976.

 「NAとは」が北カルフォルニアで印刷される。その後第一章「信じるようになった」はIP#4で再出版される。AAはジミーにそれはAAパンフレットからの盗作だと注意してきた。そのためIP#4を発行することを中止して、北カルフォルニアではそのブックレットの印刷を止めた。

 第6回WCNA カルフォルニア州Venturaで行われる。

 世界中で200ミーティング。カルフォルニア―83、アリゾナ―12、ジョージア―5、ミネソタ―11、ペンシルバニア―16、テキサス―11。

 WSOを非組織化した。


1977
 第7回WCNA サン・フランシスコで行われる。第二回WSCミーティングが開かれる。コンベンションと一緒の合同開催。北カルフォルニア、南カルフォルニアの代表、フランク・Dは参加していなかった。ヴェニス・ビーチが主催。

1978
 4月 第3回WSCがWCNAから分離して初めて開催される。

 第8回WCNA テキサス州ヒューストンで行われる。


1979
 第9回WCNA ジョージア州アトランタで行われる。

 10月 最初の世界文献協議会が開かれる。カンザス州ウィッチャ。リタレ   チャ・ハンドブックが作られた。


1980
 第5回WSCで、サービス・マニュアルを刷新することを決定する。その草案は初めて評議委員とWSOの責任者で分れる結果になった。サービス・マニュアルは明るい青色のカバーで、文献ハンドブックはWSCから提案されて承認された。

 9月 第10回WCNAがカンザス州ウィッチャで行われる。

 第2回世界文献協議会がネブラスカ州リンコンで開かれた。様々なテーマが提案されて、カット&ペーストされながら、概要として作り出された。


1981
 2月 第3回世界文献協議会がテネシー州メンフィスで開かれた。一日12時   間の協議会は9日間行われた。作られた応募フォームに世界中のすべ   てのグループからの立案が自由に郵便によって集められた。

 4月4日 第4回世界文献協議会がカルフォルニア州サンタモニカで開かれ    て、文章が入力された試作の本が作られた。

 第6回WSOがヴァリー・カレッジで行われた。

 7月5日 第5回世界文献協議会がオハイオ州ウォーレンで開かれた。一週    間に及ぶ協議会は地方の学校の教室で行われた。そして第一章が完    成した。

 9月6日 第6回世界文献協議会がフロリダ州マイアミで開かれた。ベー     シックテキストは世界文献委員で検討されて、承認された。

 10月 南中央リージョナル・サービス協議会によって、世界中の各グルー   プに承認用の白い用紙を郵送した。多くのメンバーがサービス構造の   ために残って、5つの草案が緑色のカバーの検討用の報告書を作成し   た。そして最初の半分が次のWSOで承認された。

 世界で1100ミーティングが存在した。オーストラリア―18、カナダ―25、ドイツ、グアム、スコットランド。


1982
 2月7日 第7回世界文献協議会がペンシルバニア州フィラデルフィアで開    かれた。ベーシック・テキストに加えるために検討用の「個人の物    語」が準備されて、その後承認を受けた。

 第7回WSCが行われて、ベーシックテキスト―ハードカバーのナルコティクス アノニマスが承認され、出版された。

1983
 第8回WSC 初版ベーシックテキストが協議会をパスした。

1984
 ベーシックテキストが出版された。

※注釈
 この日本語訳はScribedという英語圏の古いNoteのようなSNSに載っていたもので、この翻訳をした人が見つけた過去の時代のインターネットの掲載情報だと思います。この原文となるオリジナル英文は、以前存在していたNAメンバーのためのコミュニティサイトにあった年代史ですが、na12.orgは2022年現在存在していないようです。他に様々なNA系のウェブサイトが生まれては無くなっているので、いまもどこかのウェブサイトにこの原文を載せているところがあるかもしれません。NA誕生の経緯と、初代ベーシックテキストの出版までの歴史は、日本国内では、ほぼ知られていない情報だと思います。
 またNAが生まれる背景として、当時の米国内での社会情勢や歴史関連などについては、NAオフィシャルから出版されている「Miracles Happen」という本の中で詳細に書かれています。

追記
 インターネットで追加情報を探してみたところ、次のリサーチ記事が見つかりました。2013年作成のPDFのようですが、参考元の引用文献も含めてこの年代記よりも詳細に書かれています。英語の読める方は見てみてください。

http://www.williamwhitepapers.com/pr/2013%20NA%20Chronology%20-%20Volume%20One%202nd%20Edition.pdf



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