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熊出没注意! 三毛別ヒグマ事件
1.ごあいさつ
はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
今年1月、noteデビューをし、鉄道趣味関係の投稿をしています。
こちらでは、鉄道以外、自分で書きとめてみたいことなどを投稿してみようと思っています。どうかよろしくお願いします。
2.三毛別ヒグマ事件
昔は今よりクマの領分が広かった(人間の領分が狭かった)ので、クマとの関わり方は激しいものがありました。その最も極端な例として、日本最大?の獣害といわれる、苫前町の三毛別ヒグマ事件があります。
これは、1915(大正4)年12月9日、当時の古丹別村三毛別(今の苫前町三渓)で起きたもので、クマが退治されたのは、事件発生5日後の14日未明でした。人的被害は死亡6人(うち妊婦1人)・重傷3人にもなります。
3.発端
※以下の新聞記事の引用(「 」内)には、適宜句読点を追加し、現行漢字にしてあります(ルビは原文のまま)。
昔の新聞記事(とりわけ社会面、いわゆる三面記事)は、読者の興味をひくためおおげさに書く傾向があるうえ、とくにこの件では、読むにたえないような凄惨な描写もあるので、そういう引用は避けています。
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三毛別ヒグマ事件でなによりおそろしいのは、クマの襲撃が一度ではなく連日繰り返され、しかも、夜中に戸や板壁を破って、家の中へ侵入してきたということです。
以下主に、退治後のまとめ記事、小樽新聞「不安の六昼夜~苫前三毛別猛熊退治後聞(上・中・下)」から引用します。
クマはまず、9日午後7時ころ民家を襲い、2人が犠牲となります(上掲の記事)。
翌日直ちに20名ほどがクマ狩りに向かい、山中で発見。
「携へてゐた五挺の鉄砲で一斉に射撃したが、四挺は不発に了り、僅かに一発だけ空を撃た。途端、巨熊は猛然として向つて来たので、十八名は雲を霞と逃げた」という体たらく。
逃げ遅れた2人がクマとにらみ合った末、「巨熊は何と思つたか、奥山さして逃走した」ので、事なきを得ました。
このとき撃ちもらしたことが、被害を拡大させます。
4.再度の来襲
文字どおり味をしめたクマは、11日、最初の犠牲者の通夜の最中に再び来襲。
「今や板壁を破つて闖入しやうとしてゐる騒ぎに、通夜の人達は仰天して、狼狽なす処を知らなかつた。此物音に驚いたのか、熊は間もなく方向を転じて隣家」へ侵入。
クマは、「窓から頸を突入れて家内を睨み廻した」ので、この家の主婦が、「燃えてゐた薪を揮つて、熊の顔を殴り附けた。すると、熊は俄に怒つて、板壁を破り室内に奔入し」ます。
騒ぎに気づいた近所の人々が駆けつけますが、真っ暗ななかで発砲し、人を傷つけてはとためらっているうち、クマは逃げてしまいます。ここで4人の犠牲者を出しました。
翌12日夜には、襲撃を受けた家で待ちかまえていたところ、クマは人間がいるのに気づいたのか侵入せず、別の家で雑穀などを喰い散らした後、山へ戻ります。
5.ようやく退治
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13日夜にも民家に侵入、鶏などを襲いましたが、待ち伏せしていた猟師に銃撃され退散。
未明にその足跡をたどり、山の麓で苦しんでいるクマを発見、ようやく仕留められました。
このクマは、「牡にて全身金毛にて包まれ、頸部に襷を掛け、丈十尺〈=3m〉余もある稀代のもの」「年齢十五歳位で、頭部の毛は金色を呈し、針金のやうな剛毛が全身を蔽ふてゐた」とあります。
クマ狩りには、地元の青年団・消防団をはじめ、近隣の羽幌・苫前・鬼鹿へも応援を求め、一時は軍隊の出動も噂されたほどでした。
事件の経過は連日報道され、上掲の小樽新聞のほかにも、北海タイムス「熊害大惨事の詳報」でも、詳しくまとめられています。
『苫前町史』にも詳しく、吉村昭の小説『羆嵐』の題材ともなっています。
6.現地のいま
今、惨劇のあった現地に行ってみると、とても人が住んでいたとは思えないような山奥(実際の場所はさらに奥だと地元で聞いたこともある)です。
昔はこんなところにまで入殖していたのかと、先人たちの労苦が偲ばれます。
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ここには巨大なクマが開拓農家に侵入しようとしている情景が復元されています。
実際のクマは記事によれば「丈十尺余」とあるので、体長3m以上です。
それにしても、復元されたクマは、ちょっと大きすぎるようにも思いますが・・・。
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なにげなく脇の茂みを見ると、黒い塊が・・・。
一瞬ギクッとしましたが、これもモニュメントらしい。
よく見ると単なる小熊の置物のようですが、場所が場所だけに驚かされます。
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古丹別市街から三渓地区への道道1049号は、「苫前ベアーロード」と名づけられ、母熊と子熊の優しげなイラストが、道路沿いの倉庫や車庫の壁などに掲げられています。
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7.苫前市街の看板・モニュメント
苫前町では、工事標識や案内板にもクマがあしらわれ、かわいい系とおそろしい系の二種類があります。
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国道232号沿いにある苫前町役場庁舎前にも、でっかいクマのモニュメントがあります。こちらはおそろしい系。
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昔の町役場を改装した、苫前町郷土資料館には、この事件のクマではありませんが、大きなクマの剥製が展示されています。
現地は苫前町中心部からでも25㎞以上あります。時間のないかたは、郷土資料館もおすすめです。
8.おまけ「熊撃名人山本兵吉を訪ふ~三毛別で猛熊を撃つた男」
事件翌年(1916=大正5年)の小樽新聞に載った、クマを退治した山本兵吉の回顧談をご紹介します。
なお、小樽新聞は小樽のローカル紙ではなく、北海タイムス(本社:札幌)と並び、全道に販売網をもつ有力紙でした。1942(昭和17)年11月、北海タイムスを中心とした戦時統合により、今の北海道新聞となっています。
原文そのままで読みづらいと思いますので、慣れないかたは読みとばしてください。
・・・後で聞くと、三毛別の連中で、鬼鹿の山本に急報しやうと云ふ者もありましたさうですが、山本計りが熊討でない、山本の鉄砲計りが鉄砲でない、我々が直に討止て見せると力んだ者があつたのです。実際、私ばかりが熊討ちと自慢は出来ませんけれど、何と云つても、経験のない連中だけでは手の出しやうがなく、あんな大惨事を演ずるに至つたのです。
地元では最初、あまり難しく考えず、自分たちだけでなんとかしようと思っていたのでしょう。12日夜には待ち構えていましたが、クマは侵入しませんでした。
決死隊と称する人々はどんな事をして居たかと云ひますと、二個の洋燈を明るくし、何れも梁の上に登つて銃を手にし、熊の来るのを待ち構へて居た。之では到底熊の来る筈がないのです。
13日にも結局は仕損じており、14日未明に山に追跡に行ったときには、ついて来てもいいが余計な手出しをするなと、山本から厳命されています。
一面の禿山で熊の姿を認めますと、従いて来た九名の銃手は早、筒先を揃へたのです。私は非常に驚いて、茲で仕損じたら十人の命がないと其無謀を留め、今が一番大切の時、私に任せろと堅く制止し、・・・私丈、熊の面前に迂廻しやうと、雪の上を這ひ《乍なが》ら、熊から十一間〈=約20m〉位の近距離に忍び寄りました。此時、熊は後方の九名を始めて見付け、其方を|睨み付けて居るので、機逸すべからずと、熊の肋骨に狙を定め発射しますと、命中して左に貫通しましたので、只一発の弾丸で約二十間計り沢へ辷り落ち、一声高く悲鳴を上げ、其儘斃れました。
こうして熊を退治した山本は、古丹別村の人たちから感謝されています。
謝礼として金十円と肉一貫目〈=3.75㎏〉、酒三升を貰ひ、叮嚀にお礼を述べられました。
おまけまでつけたので、よけいに長くなってしまいました。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。