生きがいの炎上に思うこと
死にたくてたまらなくて線路を眺めていた私を救った光が誰かの犠牲のもとで輝いていた光だった。情報に押しつぶされそうで、感情に流されそうで、どうしようもなく辛くて、noteを書くことにした。まだ感情も意見もまとまらない。だけど、私の思ったことを記録しておくためにこのnoteを書く。私が救われた顛末や問題が分かってからの考えの流れは引用した記事に詳しく書いているのでぜひ読んでください。
パワハラが正式に認められた。当事者同士の合意に基づいた認定がされていることに対して私が何か口を出す権利はないし、そこに異議を唱えるなど言語道断だ。
加害者とされた人に悪意がなかったという事実がひたすら重くのしかかってきた。伝統の名のもとに不可視化されてきた歪みをまざまざと見せつけられた気がした。誰もが加害者であり、被害者である可能性があることに目眩がした。慣習がハラスメントやコンプライアンス違反の原因になると学んではいたけれど、実際にその渦中にいれば無自覚に絡め取られてしまう。そこから抜け出すことなど不可能に近い。
これは私の実体験も含んでいる。
私が育った家庭はいわゆる毒親に近いらしい。それでも私は家族のことが好きだし、今でもその家庭環境によって形作られた価値観をアイデンティティとしている。そのアイデンティティが歪んだものだと分かったのは最近だったし、歪んでいると分かった今でもそれが嘘だと言われるのを望んでいる。それほどまでにずっといた環境に人間は左右されてしまうし、染まってしまう。一生かかってもこの価値観が完全に抜けることはない。だからこそ、客観的な視点を抱え続ける必要がある。家庭では難しいけれど、企業という組織ならそれが可能であるはずなのだ。ガバナンスを担う外部の存在がなかったことがパワハラが横行した原因の1つだと私は思う。そうした体質がずっと積み重ねられた結果が今の事態で、それは劇団に共通することだと思う。宙組だけに問題があったとは考えられない。事態の検証と再発防止がなされて、全ての組で健全な運営がなされることを願っている。
それに、これは宝塚だけの問題ではなく、どんな業界でも起こりうる事態であると思う。何度も起こってきた問題でもあると思う。間違った指導が当たり前とされ、それが繰り返されてきて、適応出来れば再生産され、適応出来なければ無能と排除される。この構造はブラック企業や一昔前の運動不足なんかではよくある構造だ。やりがいで麻痺してしまう前に、不健全な構造に組み込まれて再生産の歯車になる前に、痛みに鈍感になってしまう前に、慣れてしまう前に、間違いを正して軌道修正出来るようにならなければならない。悪意がないからといって許されてはいけないけれど、悪意がないからこそ、間違いに気づくことが出来るはずだから。痛みに向き合い、傷を抉られながらでなければ改善は出来ない。内部だけで解決出来るフェーズは過ぎた。全体の体質を変えていくのは本当に難しいと思う。だけど、その困難を乗り越えなければいけない。その初めの一歩がこの合意なのだろう。
事実が分かったことで離れる人も多いだろう。それも正解だと思う。だけど、私は多分離れられない。救われてしまったし、依存しているから。愛という名の執着を抱いているから。私が救われた事実と、救えなかった存在と、救われた光が犠牲のもとに輝くものだった事実を抱え続けていく。私はこれからも阪急歌劇団にお金を使っていくだろう。お金を落としているからといって盲目に信じているわけではないし、私は受けるサービスの対価として金銭を払っていると思っている。けれど、それは支持することと同義とする人もいる。だからこそ、盲目的な支持にならないように、健全な運営のための資金として使われるように、私の意思を伝えていくことが大切だと思う。
盲目にならず、愛で麻痺しないように、客観的でいられるように、批判的な視点を排除しないように、このことを忘れないように、彼女の存在を忘れないように。
これからも彼女の犠牲を悼み、安らかに眠れるよう祈り続けよう。
私が愛するものが、愛するひとが、愛するところが、幸せに満ちた健全なものでありますように。
もう誰も舞台の裏で泣かないように、誰かの犠牲によって成り立つ光がなくなるように。
救われたと胸を張って言えるように。