幸せはいつも自分の近くにあるんだよ
もうかなり前だけど、
星野富弘さんの『風の旅』と言う画集を買った。
『神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ペンペン草の実を見ていたら
そんな日が
本当に来るような気がした 』
その言葉を読んだ時、
涙が止まらなかった・・・
その時の自分はどん底の真っ只中!
暗闇の中で必死にもがいていた時だった。
星野さんの綺麗な心に 私の中にあるまだまだ汚れたもの…
弱さやズルさや愚かさ、苦しみや悲しみ…すべてが洗い流されていくような気がして号泣していた。
星野さんは、首から下がまったく動かないのに、口で筆をくわえて絵や言葉を描いてる。
自殺を考えたことも何回もあったと聞いた。
でも、それを乗り越えて多くの人達に勇気や希望を与える言葉や絵を描いて、自分の生き方を通して私達に『生きる』と言うことの大切さを教えてくれている。
しかも、神様に叶えてもらいたい、たったひとつの願いは、
母の肩をたたいてみたい・・と言うことだった。
それは、普通の人だったら普通に誰にでもできること。
でも、それができない人にとって、どれだけ尊く価値があることなのかわからない。
片手だけでも動けたら、お母さんに触れることができるのに、それさえもできない苦しみ・・・
どんなにもどかしいだろう・・・
どんなに切ないだろう・・・
どんなに辛いだろう・・・
でも、星野さんは、それでもそれを受け入れて自分の命の花を精一杯咲かせている。
そう思ったら、自分の苦しみなんて大したことない! そう思えた。
『動ける人が
動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように 動けないものが
動けないでいるのに
忍耐など 必要だろうか
そう気づいた時
私の体を ギリギリに縛りつけていた
忍耐という 棘のはえた縄が
‘’フッと解けたような 気がした』
星野さんは動けない事と闘うのを止めて、すべてを心から受け入れて神様に委ねることができた時、本当の自由を手に入れたのかもしれない。
そこまで辿り着くまでの葛藤や苦しみはそうなったことのない人間には簡単に理解できるレベルではないけれど、星野さんの在り方を100分の1でもいいから見習いたい。
当時私は独学で瞑想や色々な勉強をしていたけど、星野さんの言葉を何回も何十回も読んでその度に大切なことに気づかされた。
手足が動いて何処にでも行ける。
歩ける、食べれる、歌える、走れる、踊れる、誰かと触れ合える、何でも持てる・・・
自分の事が自分でできる事、それさえも当たり前じゃない。
何でも自分の好きなことができる私は幸せだ。
それなのに、それがどんなに有難く凄いことなのか・・
それを失った人しかわからない・・・
私には認知症で両足骨折の為車椅子で介護施設で生活している母がいる。
今は施設で面倒をみてもらっている為、まだ面会ができず2ヶ月に一度病院の診察の時にだけ会う事ができる。
その時に母に触れ、母と話もできる。
母が認知症になる前は、私の良き話し相手で、良き理解者だった母。
いつもお互いに何でも話し、お互いに支え合ってきた。
だから母が認知症になって今までと同じように会話ができなくなった事が最初はショックでとっても悲しかった。
でも、今は車椅子生活になっても認知症になっても、とにかく母が心安らかで毎日元気でいてくれる事に感謝している。
母が表面的にはどう見えても、私にとっては昔のままの母だ。
元気に笑う母の顔を見ていると
過去も未来も関係なく、母と過ごせる僅かな時間がとても大切で幸せに感じられる。
幸せはいつも自分の近くにあるんだよ。