平賀源内と日本100名城 山中城
山中城
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山中城
(静岡県)
障子掘
城郭構造山城天守構造なし築城主北条氏康築城年永禄年間(1558年~1570年)主な改修者北条氏政主な城主松田氏廃城年1590年(天正18年)遺構曲輪、堀、土塁指定文化財国の史跡位置
北緯35度9分23.03秒 東経138度59分32.71秒テンプレートを表示
箱根峠
山中城
箱根火山と山中城などの位置関係
山中城(やまなかじょう)は、静岡県三島市山中新田(伊豆国田方郡山中)にある中世の日本の城(山城跡)で、国の史跡に指定されている。
概要[編集]
北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ[1]。
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。
2012年まで、5月の第三日曜日に山中城まつりが開催されていた。(現在は中断)
歴史[編集]
岱崎出丸と畝堀(復元)
永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる6万8千の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和9年)に国の史跡に指定された[2][3]。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(40番)に選定された。
現地案内[編集]
所在地[編集]
静岡県三島市山中新田字下ノ沢ほか
交通アクセス[編集]
関連作品[編集]
小説
山中城攻防戦で豊臣方の一番乗りとされる渡辺勘兵衛が主人公。この戦いも詳しく描かれている。
この戦いで小田原方で戦った主人公の目線で書かれている。
秀吉・家康・豊臣秀次らの思惑も交えつつ、北条方の視点で描いている。
参考文献[編集]
三島市教育委員会編『史跡 山中城跡』1985年(昭和60年)刊
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、山中城に関連するカテゴリがあります。
外部リンク[編集]
山中城跡(国指定文化財「史跡」) - 三島市ホームページ
国指定史跡 山中城跡 リーフレット (PDF) - 三島市教育委員会
史跡山中城跡 発掘調査と環境整備事業の概要 リーフレット (PDF) - 三島市教育委員会
史跡山中城跡 北条流角馬出や障子堀の残る山城 リーフレット (PDF) - 三島市教育委員会
山中城跡公園 - 三島市観光協会
障子堀を温ねて(たずねて) - 静岡県公式ホームページ
山中城の解説~小田原攻めにおいて半日で落城した後北条氏の城郭~
山中城の魅力を探る~土だけからなる希少な山城~
脚注・出典[編集]
^ 静岡県教育委員会文化課 「静岡県の中世城館跡」 1981年 225P
^ 三島市郷土資料館 「駿東・北伊豆の戦国時代 北条五代と山中城」 2016年 10P
^ 三島市教育委員会 「史跡山中城跡 発掘調査と環境整備事業の概要」 2001年 2P
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