エンパスの正体


自分はおそらくエンパスだったと思われる。

この「だった」というのは小1の頃、
クラス中の生徒たちの会話内容ほとんどが聞こえていたからだ。
それが小3に上がる頃には無くなっていた気がする。

聖徳太子の逸話も創作ではなく、単なるエンパスの特徴だろう。
大勢の会話を同時に聞き取ったというアレだ。

ただ、人間関係や自己保存の為の欲がセンサーを狂わせていき、
大人になってエンパスを維持するとハッキリ言って生活できない。
環境に適応するならその感度は苦痛しか与えないのだ。
だからそこには蓋をしなければ生きていけない。
眼を閉ざし、耳をふさいでようやく社会生活が可能になると。

一時期の引きこもりの多くはこれが混ざっていただろうし、
米津玄師なんかもおそらくその気があったと思われるし、
都会に来たブッシュマンが「帰りたい」と思ったのはエンパスか。
情報過多と周囲の依存がそこにあると。

おそらくはペットというのもエンパスに近いものがあり、
それ故飼い主の心の負担を共有し、癒し効果があるのだろうし、
犯罪者の動物虐待の原理もそこにあるのだろう。

故に未熟な毒親の依存心は子供がエンパスだとそこに向かう。
子供に浄化を求め、悪意に満ちた共依存関係を強いてくる。

大分の悪魔祓いと称した虐待事件はそれの行き着く結果だろうし、
一時期引きこもりを家から連れ出す業者のオバサンがいたが、
もう完全に眼が吊り上がっていたし、某ヨットスクール校長もそう。
吊り目は本人が強いのではなく他責の象徴でしかない。

ああいうのは他責論者の弱者への共依存システム、詐欺に近い。
あの手の欺瞞に満ちた加虐行為は主体の無い人間による主体の搾取である。
あんなビジネスは本質的で無自覚な悪意だろう。

ストーカー犯罪、SMの原理、ペドサド、マウンティング、
こういうのは自責と他責の相殺原理によって生まれる現象、
主体と客体、キリストとユダの法則だろう。

子供の頃の自分は憎しみとか恨みとかそういった感情を持たなかった。
ただそういうモノだとぼーっと観察していた。
記憶をたどればずっと周囲の責任を押し付けられてきたようだ。
幼稚園の副園長には目の敵にされ、見せしめに一人だけ罰を受けたし、
その幼稚園からの帰り道には目の汚いアル中の変質者が待ち受けていた。

エンパスは温厚で自責で主体性の塊であるが故、
他人への攻撃性を持たず、それ故周囲が責任を押し付けてくる。
デマや悪意や裏切り、冤罪が四六時中発生するのだ。

実際30年以上前に東京でたまたま出会った気持ちの悪い変質者は、
ネットを通してず~~~っと粘着し未だにネガキャンをしている。
あの幼稚なオッサンは責任の所在を無関係なコチラにこじつけている。
彼は本当に中身が無く、外部に基準を求める露骨な権威主義者であり、
ヘイト対象のコチラの趣味嗜好を裏でパクって堂々と個性を演じている。
この惨めなダブスタ行為に本人は気づかないらしい。
おそらく自分が何をしてるかすら彼は一生理解出来ないのだろう。
まぁ脳みその個人差なのでそういうモノだと考える以外にないだろうが。

さくらみこの自己評価の低さ、劣等感なんてのは主体性が強すぎたからだ。
彼女は感じたモノをありのまま、正直に生きてきたから辛かっただけ。
作られた価値観を受け入れられなかっただけ。
そして他人の心理の穴をケアする、みこちもやはりエンパスなのだろう。

彼らが周りの損を引き受けない様にしなければ、皆が不幸になるだけだ。
共依存による相殺により循環を阻害し、トータルリソースが増えなくなる。

これが多くの科学者が最後に行き着く「愛」という物の正体だろう。
社会的な生産性を求めれば感情論じゃなく「科学的」にそうなると。

おしまい。

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