宗教雑感


まず原始宗教というのは偶像崇拝と生贄で成り立つ。
(何度もこするのは浸透させたいから。)

偶像という「他責」。


生贄という「他罰」。


このワンセットで自分だけは責任を回避できるという思想。
これが無責任、つまり少年Aの言う「透明な存在」「無垢」であり、
ゴールディングの小説「蠅の王」でいう「イノセント」、
思考停止の中央値、9割のバカ、羊でありケモノ。
物質主義・快楽主義・サディズムの正体だろう。

「蠅の王」では少年たちは自然発生的に「豚の頭」を偶像にして、
トップダウンの結束、同調圧力の維持の為に少数派狩りを行う。

欲求に任せた「悪魔主義」の自然発生。


彼らは少数派を淘汰したのち、当然だが残ったメンバーを減らす。
下位から一人ずつ生贄に選びながら母数を減らすはずである。
コミュニティ維持の手法としてそういうルールを信じている、
つまり、

「弱肉強食」


考えればわかるようにトップダウンの悪魔崇拝、滅びの原理だ。
これがタイトルの「蠅の王」、ベルゼブブを意味するのだろう。

トップダウン構造を維持すると、おそらくこうなる。
現行の人間の社会では常に生贄を消費せざるを得ないと。
これがいじめや虐待、人柱の原理だろう。

肩書文化で日本社会は文明人からかなり遠のいていったはずだ。
本質じゃなくポジションを求めるが故、どんどんと劣化していった。
それゆえ、社会上部よりも末端の職人の方が優秀になり、
大人より子供の方が賢くなってしまった。

ADOさんの「うっせぇわ」の歌詞まんまだろう。

イスラム教で神のイメージを実体化してはならないのはこれだろう。
偶像崇拝をすれば他責になり、自分と神が切り離されるからだ。
そうすると人間は共食いチンパンジーになってしまうのである。

キリスト教ではロザリオという教義の「シンボル」があるが、
これは一歩間違えると「偶像」になり得る危険な物だ。
その為、身に着けていないと意味をなさないというルールがある。

疑問に思うのが、映画などでたまに見かける、

「キリスト像」や「マリア像」。


これに祈りをささげている人達にめっちゃ違和感があった。
磔になったキリスト像を拝むとか、サディズムを感じる。
キリストの尊厳を辱めているようなニュアンス。
人間としての思想家であろう彼自身が責任を押し付けられている。
苦痛をパーマネントしてる、固着させている。

なにか生理的な嫌悪感というか、グロテスクに感じたワケだ。
これ、今になって言語化できるのだが、

完全に「偶像崇拝」になっている。


マリア像が血を流したというなら、それは悪魔崇拝になったから。
像に祈るほどに他力本願の偶像崇拝として神が遠のいてゆく。
悪魔主義に近づくはずだ。

それとキリスト教の三位一体に関してだが、

「父と子と聖霊」


子と聖霊はわかる。
肉体とハイヤーセルフの意味であり、
肉体だけだと「無垢」になって原始宗教へと転落する。
だから聖霊と対になってようやく文明人になり得ると。

実際に近代教育という洗脳によって松果体が潰された大人たちは、
思考停止のアニマルになって、権威主義という偶像崇拝者になった。
逆さピラミッドの形成、これが滅びの原理そのものだろう。
勉強のし過ぎで家畜化してしまったのだ。

つまり、ハイヤーセルフと繋がらないと文明人にはなれない。
仕込まれた肩書文化による洗脳は完全な愚民化のギミックだろう。
敵の設定した原則無視のアメ鞭ルールにより、国は滅ぶ。
明らかに世襲・学歴システムが社会を崩壊させている。
松果体維持でのハイヤーセルフとのアクセスこそが文明の基盤だろう。

じゃあ「神」って何よ?


ハイヤーセルフは万物に宿り、八百万の神として存在する。
同じ魂は人間や動物、植物、無生物、土地、或いは地球と。

輪廻転生ともいうけれど、過去も現在も同時発生するのであれば、
目の前にいる猫に自分のハイヤーが宿っていても不思議ではないと。
既に「子と聖霊」の2つだけで万物の成り立ちは完成してる気が?

ひょっとして「2位一体」が正解とか?


キリストは「神」の概念をどうやって認識したんだろう?
フェイクではないのだろうか?

ハイヤーセルフと完全につながれば、神の概念も判るのかもしれない。
ひょっとしたら、それこそが罠の可能性もある。

日本における神とはおそらくハイヤーセルフだろうし、
ネイティブアメリカンは唯一神を求めただろうか?

つまり神というのも偶像になるなら悪い心理誘導になり得る。
妄信すればカルトであって、自分が納得できるまでは保留だ。
つまり、

答えは外部にはないという事。


そういう話。

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