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自画自賛でいいかもね

ここ…実家の片付けは大変だった。

商売が盛んな頃には宴会場にしていた2階は、それなりの広さがあったけど廃業してからは父の寝床と物置になっていた。

1階店舗の奥は掘コタツと布団を敷いたらいっぱいな母の寝床

父のイビキがうるさいからと上下に分かれて寝ていた。

店舗だった部分は半分が物置きになっていて埃まみれだった。

主婦たる人が、もう50歳そこそこで寝てばかりいて買い出しから食事の支度を父がしていたから、片付かない訳だったよね。

なんだか宝の持ち腐れ的だった。


いつか私がなんとかするしかないと漠然と思っていたのが、父が倒れたことで早まった。

脳梗塞の手術をして、退院後は階段を使えなかったから1階の奥の部屋を片付けて、父の布団も敷いて寝起きできるようにしていた。


その後にまた別の原因で父の入院と、退院後の施設探しと入所。ひとり暮らしになった母の元に通った日々。
長距離通勤もしてたのに毎日をどうしていたのか、もう、よく覚えていない。

そういえば休みの日は、ほぼ実家に通っていたし曜日ごとのごみ収集には会社帰りに袋を運んでいた。

その辺から始まって今思うと、あの頃は火事場の馬鹿力的エネルギーがスゴかった。
もう同じ事はできないなぁと思う。


そうか、これを味わったから同居しないと無理だと思ったようにも思う。

建て替えを決めたのは、建屋の老朽化で雨漏りや地震対策を考えて、売却と住み替えを提案したら「ここを退きたくない」と言われたからなんだ。

ハウスメーカーや銀行や役所や…
息子たちも同席で、まあ良く動いた1年だった。 


実家の荷物は凄まじく、やはり息子たちを動員して何度も市の施設に車で持ち込み、廃棄していった。取り壊し開始に間に合わなかった分は致し方なく業者さんに依頼した。古くからの宴会用の食器とかたっぷりあったから。


幸いだったのは母が執着がなくて
「捨てること」を厭わなかったこと。

『みんな捨てちゃって』

と言っていたし、ハウスメーカーとの打ち合わせも面倒だったのか

『好きなようにして』
と言っていた。
その代わり、ずっと寝ていた 笑


よく頑張ったね、わたし達。
自分で自分を褒めてあげよう。


また思い出す都度ここに書いておけば、これからもなんとかなりそうな気持ちに、なれるかも知れない。


アクロバット?


猫背に哀愁が
何が見えたのかしら


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