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【読書】働きながら本も読もう 「半身社会」への考察『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』

なぜ正社員でいるためには週5日・1日8時間の勤務+残業あり、の時間を求められるのだろう。それは仕事に「全身」を求められていた時代の産物ではないのか。その分家事に「全身」をささげていた人がいたからできたことではないのか。今の時代に、「半身」―週3日で正社員になることが、なぜ難しいのだろう。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 三宅香帆 集英社新書

週3日で正社員で働ける社会、いいですね。1日は読書して、1日は茶道をやって、1日は庭をやって、1日はおでかけしよう!

って、今まさに夏休みをそんなふうに過ごしていますが、毎週そうだったら…
お財布の中身をどうやって増やすか、真面目に研究しないとね。

「仕事を減らしましょう」って、言われております。固定観念の外し方がわからず、迷走中

フルタイム残業つきで働きながら、子育ても経験してきたので「家事に全身をささげていた人」がいると言われても、うまくイメージできません。そういえば、専業主婦を子どものころから身近で見たことがないのです。職場にも、周りの人たちにもとても恵まれていたということなのでしょう。

「半身」で働くとは

「半身」とは、さまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を取り入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである。

同上

 自分を覚えておくために、自分以外の人間を覚えておくために、私たちは半身社会を生きる必要がある。
 疲れたら、休むために、元気が出たら、もう一度歩き出すために。他人のケアをするために。他人のケアをできる余裕を、残しておくために。仕事以外の、自分の人生をちゃんと考えられるように。他人の言葉を、読む余裕を持てるように。私たちはいつだって半身を残しておくべきではないだろうか。

同上

忙しすぎると「余裕」はなくなる。でも仕事を減らして「半身」を残すことで生まれた余裕をどう使うかって、意外と難しいのです。

子育てって

わたしは、保育園や親や親戚や近所の子育てママや、寮のある私立学校の協力を得て、フルタイム残業アリで仕事を減らすことなく突っ走ってきたけれど、子育ては、時間があってもなくても「全身」でやるしかない。
子どもは全身で生きていて、親には責任があるから。

でも、「全霊」ではやってこなかったから、無事にやりこなせたのかもしれません。失敗してしまったとき、全身で「ごめんなさい!」って言いながら「次に活かそう」ってするしかないですものね。
「ま、いいか」の精神です。

そして、仕事も子育ても、仲間たちと思い出し笑いしながら、ビールがどんどん進むような面白い経験がいっぱいできたというのが実感です。
苦い経験も、その時の苦さは思い出せるようでいて、痛みそのものは忘れてしまうんですよね。

手の抜き方、息の抜き方、気持ちの逸らし方も、
忙しさがなかったら、上手くならなかったかもしれません。

仕事を全力でしていても、子どものことはやはりいちばん気にかかる。
逆に子どもといる時でも、仕事のことは気にかかる。

その、「余裕」のないなかで、すべてをギリギリで回していくためには、「盲目になっている場合では無い、ここで線を引こう」って感じが、自分のなかにバランスをもたらしてきたような気がします。

働き方の危機感は韓国でも

この本と同時に、本屋大賞にもノミネートされた『ようこそヒュナム洞書店へ』ファン・ボルム(集英社)を読んでいました。こちらは仕事をやめて書店を開いた主人公を初め、仕事や就活でバーンアウトしてしまった人の再生物語だったので、韓国も日本も今、危機に陥っている人がそんなに多いのだと考えさせられました。
三宅香帆さんも、この小説の主人公同様、仕事ができて、仕事が面白いのに、大好きだった本が読めていないことに気づいて退社したという御経歴ですから、そういう内容と知らずに手にとった2冊がシンクロしていてびっくりです。

趣味の効用

仕事や家事や趣味や―さまざまな場所に居場所をつくる。さまざまな文脈のなかで生きている自分を自覚する。他者の文脈を取り入れる余裕をつくる。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 三宅香帆 集英社新書

趣味の読書と茶道とヨガとガーデニングは、ほどほどに続けられました。
休日出勤と子どもの部活応援と自治会活動とのジグソーパズル

ガーデニング
人間相手の仕事や子育てが、全く思うままに行かないときほど、庭がきれいになりました。植物は素直だからね。手を掛けただけ素直に応えてくれて、心のバランスがとれるのです。

茶道
子どもが家の中を散らかしまくったり、宿題をしないでベッドから起き上がって来なかったりでイライラするときは、茶道のシンプルで洗練された空間にひとときでも身を置くことで、自分を客観視することができました。
外出を伴うので、子どもが10歳になるまでは我慢して中断していたため、かなり禁断症状が出ていました(笑)

ヨガ
集中して汗を流すと、わたしは健康だ!って安心できます。

読書
ワンオペで子どもの運動会に付き合うのは苦痛でしたが、出番のない時には木陰に引っ込んで読書ができるので長い1日を前向きに過ごすことができました。部活のお迎えの待ち時間も本さえあれば、あっという間です。

仕事も子育てもそれぞれ「全身」で行ってきたからこそ、「他の文脈」がどうしても必要で、その時間を渇望し、味わうために、時間の使い方がうまくなっていきます。

持ち時間と集中力の反比例

「半身を残しておいて、もう半身で何かする」というのは時間の割り当て方なのか、気持ちの持ちようなのか。はたまた、制度や権利の問題か。

子育てって、時間があればあるほど、夢中になって、狭いところへはまり込みがちだし(モンペさん問題)、時間がある人たちが、読書をしているかというとそんなこともなく、私の敬愛する読書インフルエンサーの方たちなどは、いくつもの仕事をしながら忙しさとは関係なく、モリモリと読書されているように見えます。

半身(はんしん)か半身(はんみ)か

今、子育てや介護などの誰かのケアで時短勤務をしている方もいますが、「半身」で仕事をしているようには見えません。少ない時間をやりくりし、その現場現場で「全身」で仕事をしている姿にパワーをもらっています。

逆にフルタイムの正規雇用の職員でも、「半身」でしか仕事をしていないように見える人もいます。割り当ての時間を最低限のエネルギーで過ごすタイプの人。仕事、頼んでも結局フォローが高くついてしまいます。
制度批判と権利の主張で自己防衛し、半身(はんしん)というよりは半身(はんみ)で物事に向き合っていては、仕事の面白さもわからないまま、成長の機会も得られない。
そして頑張る人の仕事は増えてしまって…それはマネジメント力の問題ですね(汗)

おわりに

先日の木下斉さんのVoicyで、「苦しいときが成長しているときで、楽になったと感じているときは落ちているとき」というようなお話がありました。

今の業務に慣れて、それ以上の工夫をしなくなったときが、その仕事からの離れ時。「全身」でぶつかりたくなるような仕事があるのって幸せなことだと思います。

「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」

という本の帯にひかれて読んだこの本ですが、本当に忙しかった子育ての頃は、そんな時間もなかったなと思い出すことができました。

今は、疲れてもないのにスマホの動画にだらだらと時間を使っていて反省。

仕事を減らす仕組みを考えよう!


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