自由と不自由、便利さと不便さについて

不自由な状態にあるとき、自由を求めて悪戦苦闘する。
不便な状態にあるとき、便利さを求めて試行錯誤する。

そして自由を手に入れた・・・!
そして便利さを手に入れた・・・!

・・・その自由に限界は無いか?
・・・その便利さに限界は無いか?

つまり、自由はどこまでも自由なのか?
自分一人の自由をどこまでも追求しようとすれば
世の中、自分以外の人も当然暮らしているので、
その人の自由と、自分の自由がいずれ衝突してしまうのではないか?

利便性についてはどうか?
今、色んな物やサービスが便利になっている。
デジタル化やAI技術が進歩している。
しかし100年後の人たちから見れば
「21世紀はなんと不便な時代だったのだろう」
「令和世代が『昔はよかった』と言ってた気持ちが分かるわ」
みたいな会話がされているのだろうか?
今でも十分便利に思うが、後世の人から言わせれば、
今はむしろ『デジタル不便社会』を生きていて
真の『デジタル便利社会』はまだまだ先、という具合に
利便性は今後もまだまだ追求できそうだ。

しかし、利便性には限界がないのか?
効率化や低価格を追求していけば、いずれ削ぎ落すものがなくなり
0円に限りなく近づいても0円になることはないのではないか?
この世に存在する全ての『仕事』という面倒なものがAIに取って代わり、人間は遊び惚けるだけという世界の実現が1つのゴールだとすれば、そこを『ゴール』としている以上、それ以上の利便性は追求できないのではないか?

私の考えだと、自由や便利さというのは、限界があるものだと思う。
いずれ飽和状態に達し、地球にあるものの全てが解明され、
後は宇宙をさまようぐらいしか刺激がなくなると思う。

自由や便利さを追求することで、同時に何かを捨てていることがある。
よりによってそういうものが大事なものだったりする。
なぜ自由を求めるのか?
それは不自由が嫌だからだろう。
なぜ便利さを求めるのか?
それは不便さが嫌だからだろう。
自由を手に入れることは、部分的に見れば不自由を手放すことであり、
便利さを手に入れることは、部分的に見れば不便さを手放すことだろう。

しかし仮に究極の自由や便利さを手に入れたとしても、おそらく人は満足できないだろう。
むしろ窮屈、不自由、不便さ、苛立ちが際立つかもしれない。
人は変化を求める生き物だが、これ以上自由になれない、これ以上便利にならない、という状態は、これ以上変化しない、という状態でもある。

でもこれって、実は不思議だと私は思う。
自由を追求したのに、いずれ変化しない状態にまで達して不自由を感じる。
便利さを追求したのに、いずれ変化しない状態にまで達して不便さを感じる。
じゃあ、逆に不自由、不便さとは何か?と考えた時、
『元々私たちは不自由な環境を生きていて、だから自由を希求してきてここまで来た』と言えないだろうか?
『元々私たちは不便な環境を生きていて、だから利便性を希求してきてここまで来た』と言えないだろうか?

そして、いくら自由や便利さを追求しても、不自由や不便さを感じるなら
『自由は、不自由の中にあって、しかも不自由はどこまで行っても不自由のままである』
『便利さは、不便さの中にあって、しかも不便さはどこまで行っても不便なままである』と言えるのではないか?

『不自由はどこまで行っても不自由のまま』=不自由には際限がない
『不便さはどこまで行っても不便なまま』=不便さには際限がない
本来自由や便利さを求める時、「どこまでも自由で、便利であってほしい!」と思いがちだが、実はその『どこまでも(=際限なく)』という、『自由や便利さが到達したい目標』を、不自由や不便さが『もう既に到達している』と言えるのではないだろうか?

物事は『表裏一体』であるという。
自由と不自由、便利さと不便さも、まさにそうだと思っていたが、
これらに関して言うと、『裏』が『表』を飲み込んでいて、
『表』は必死に『裏』の支配の沼から抜け出そうとしているけれども、
抜け出すことは到底できない、みたいなそんなイメージを今は持つようになった。

それでも「私は自由だ!」「私は今、便利な世の中を生きている!」という人を見れば、その人たちは自分にそう言い聞かせることで自分自身をなんとか納得させようとしている、そういう風に私は見えてしまうのである。



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