はじめてのnote  自己紹介      20歳ニートの世界観

私は今年で20歳になるごくつぶし。

丁度人生のひとつの節目となるので、自分についてまとめてみました。
随分と醜いですがご容赦ください。
結論は最後にあります。

以下本文



私と孤独
 
以下はこじれた人格の20歳、独白である。
私は保育園、小学校、中学校、高校と悶々とし陰惨な生に産まれた。どの時期を振り返っても3分の2は独りで生活していた。ちなみに残りの3分の1は友達というか仲間がいた。順を追って述べよう。
保育園時代
私は共働きという愛の表面積の狭い家庭に生まれた。記憶があるのは4歳頃からである。給食に味噌田楽が出たり、担当の先生がおむつを替えていたり、複数人でボール遊びをしていておりいたって普通の保育園だった。人数も一組に15人ほどであった。先生たちが言う。
「○○ちゃんまだおむつ替えていないから引き留めてー」
「わかったー、そっちの子はまだ給食食べてるから見ておいて」
「あー、△△ちゃんまた泣き出しちゃったからなだめてー」
思い出せる情景はこれくらいだ。一方、僕はどうか。
泣かない
騒がない
給食は嫌いなものは残すが基本食べる
独りで積み木遊び、プラレール、トミカ
他の子とはあまり話さず、先生たちと話したり男子にもかかわらず、それも優れた容姿というわけでもない、女の子と話したり遊ぶ
図書館に行っても独りで間違い探しの絵本を眺めたりする
保育園にあるおもちゃを家に持って帰ったりする
ひどいのだが、ある子を仲間外れにしたりする、など々
以上より、先生たちからしても少しばかり“変わった子”であっただろう。自分事に肯定的になるのは趣味ではないがいま想えば、このころから周囲とは一線を画す異質さを孕んでいた。もちろん片手で数えられるくらいの年齢なので自他の境界は曖昧で一緒に保育園外で一緒に遊ぶレベルの友達はいた。家では、両親と一緒にバラエティ番組を観たり、保育園であったことを楽し気に話すこともあったらしい。そして人をランク付けするという理性も芽生える。
小学校時代
ある幼馴染の子とともに入学する。その子は私と一緒に登校し、他愛無い雑談(私の一方的な会話と呼ぶに呼べないもの)を受け入れてくれた。(保育園時代、私はその子を迫害していた、だが仲良くしてくれていたので今では感謝している。当時は微塵も思っていなかっただろうが。)人間関係は小6になるまで、その子以外とは築いていなかった。例外がある。
自分としては、普通に学校生活を送っていた(独り)のだが、私のことを好きと言ってくれる女の子がいた。バレンタインといったイベントではチョコを貰い、送り返していた。味はまあまあ美味しかった。その子には2年連続で貰った。そして返した。学校では普通に授業を聴き、テストでは毎回100点を取っていた。くもんに通っていた影響が大きい。それを周りに自慢し、90点や80点の子を態度を露わにしてマウンティングしていた。(回想、保育園時代から何の進歩もしていない、醜い)小4、5のことである。このころから学力という指標において人の優劣を判断していた。転校生を奇異の目でみたりしていた。ある日、私が自由帳に絵を描いていた。すると2人組が近ずいてきて言葉を放った。
「ダッセーwww,まだそんなお絵描きとかしてんのw」
私はこの時初めて自分が異質であり、孤独であることを智った。ようやく気ずく、いや、気ずかされたのだ。すぐに絵を描くのをやめ、トイレにでも逃げ込んだのだろう。初めての経験だったので、動揺し、これまでの人生を恥じた。自らを客体と捉えたことを自認したのだ。よく可愛がってくれていた先生にもある日を境に淡白にあしらわれるということも相まって、自己を他者のように扱いだす。また、経緯は覚えていないが、中学受験塾に通いだす。そこでは皆が受験のためと授業を聴いている中、私独りがくだらないことでげらげら笑い出すといった迷惑もはたらいていた。隣の席の子から無理矢理に筆記用具を借りることもした。小学生ということもあり、先生はきつく言われないものの、かなりのお荷物だっただろう。だが、何とかして元進学校の穎明館という中高一貫校に合格する。担当だった先生からは、電話で報告した際
「マジでww!!!!?」
と言われた。笑っており、驚いていたこともありかなり意外だったのだろう。親に
「馬鹿にされてるよ」
と言われるまで自分のあらゆる意味での“異常さ”に気ずかなかった。さすが小学生。この異常性は中学に入ってから苦労の種となる。
中学校時代
穎明館に入ってすぐの日、登校一日目、基準は不明だがクラス分けがされていた。自分の席を探すのに苦労した、何しろ黒板側を前としているのにそれに従わない生徒がいたためである。運悪く自分の席はその生徒に座られていた。仕方なく適当な空いている席に座った。案の定、担任となる先生が入ってきて席を正された。人見知りにとっては、この程度の変異に敏感になってしまうのである。困る、あの時のあいつ。オリエンテーションが始まった。一人ひとり自己紹介をするのだ。ここで私は爆弾になる。皮脂でべたついた髪に黒縁の眼鏡、内気そうな顔、姿勢のままある言葉を言う。
「どうも、吉野圭といいます。趣味はネットサーフィンです。よろしくお願いします。」
なんだこいつ、おかしい。なにがよろしくだ、自分の容姿と発言内容を掛け合わせたらどうなるか考えろ、どう考えても、気持ち悪いし、二次元に生きていそう、2ちゃんねらーかな、教室の空気が一瞬にして凍った。発言した後、5秒くらい動きが止まったのを思い出せる。
その後自由にしてよい時間があった。周りはすでに交友関係を築いていた。自分の座っていた席の列の生徒ら(私を含む)は、後に四天王と揶揄される。阿保の4人という意味で四天王である。後日、入る部活、趣味、性格などでグループができるのだが、私は後れをとった。俗にいうスクールカーストである。私は理性を取り戻し、交友関係を築こうとするのだが、上手くいかない。当然である。容姿×、性格×、頭×、どうあがいても最底辺の人間である。ところが、私のいたクラスの男の子たちは、優しく、私と同じゲーム好きだったのである。モンスト、パズドラ、クラロワ、荒野行動といった、ソーシャルゲームを機点に私は他の男の子たちとつながった。例を出そう、音楽の授業だった。初めてである、隣は男の子だった。私が隣ということを知るに、大変あからさまに嫌そうな顔をした。生理的に嫌われたのである。ただ、その子は趣味にFPSゲームをやっており、それで一緒にゲームするまでの中になった。もう一つ、その子はPlaystation4でゲームをしていた。私はスマホ。さあ、どうする。
“嘘”である。
友達を増やすため、必死になって話を合わせ、過剰にリアクションをし、後のトイレでは誰もいないのを見計らって、笑顔の練習もした。世のリア充ども、どうだ、これが最貧だ。惨め、哀れ、醜い、むごい、どうとでもいいたまえ。齢13にして既存の人間関係の破綻をみた私は、演じた。演じた。強い言葉を用いるなら“詐欺師”である。だが次第に私に話しかけてくれる子も増えた。欺瞞の最高峰には、“友達の家に泊まる“である。素直に言おう、楽しかった。まだまだ純粋である。私がクラスの男の子のトップにたつこともあった。誕生日に祝福にカードを貰うこともあった。だが幸せとは脆く、砕けやすい。2学期を境に周りが他のクラスの子と絡むようになった、私はついていこうとした、無理だった。自分から話しかけた経験がないためである。欺瞞と逃避の末、3学期、私のスクールカーストにおける立場が皆の違和感を熱に溶け始めた。1年生の最後、私の地位は自己観測であるが、良くて2軍である。春休みをはさんで2年生が始まった。仲の良かった子が多いクラスだった。私は定期テストで割と良い順位を取った。最高上位約10%に入ったこともあった。ちょっとしたクラスの話題になった。容姿もあってのことだろう、ガリ勉と呼ばれることもあった。ただしそれは当時いたグループの最後通牒だった。3年次にはもうそのグループとは関わりがLINEだけになっていた。新しく仲良くなった子もいた。3年次、新しいグループに入れてもらえた。今度は1軍ではない、2.5軍である。好きなアニメ、ゲーム、ネットの記事で話題はもちきりだった。私に近寄ってきてくれる男の子がいた。LINEで会話もした、だが私の壊滅的な雑談力のため、wだけなどという次第に雑な会話になっていった。女の子が私の落とし物を拾ってくれることもあった。放課後にサイゼリヤで談笑したこともあった。話題は、ある女の子についての悪口である。1時間くらい話していた気がする。普通にひどい。これらが私の中学校時代の内容である。
高校時代
開幕コロナ休みという長期的な自由時間があった。友達とゲームをしていた。1日12時間である。2か月と半月それが続いた。これが終わる頃、丁度海外への修学旅行があった。はっきり言おう、行きたくなかった。班を決めろとのことだった。地獄である。スクールカースト下位にとって体育の時のようなグループをきめろという行為は縁がない。しかし運良くコロナのため修学旅行は中止になった。これは全ぼっちが共感できるだろう。球技大会、修学旅行、体育祭、文化祭は陽キャ達には、体裁の良い社交場になるだろう。だが、陰キャにとっては、退屈で、陰鬱で、やる気の出ない学校を休みたくなる行事であり、自らを傀儡や屑に仕立てたい最高に最悪な空間なのである。とどめを刺そう、ある日私は、アニメの展示会に誘われた。一年に一回あるかないか、自己肯定感を高めてくれる出来事であるので、喜んで乗った。そして、私は自分の価値を改めて思い知らされた。それはなにか、写真である。一枚の写真、そこには私を含め数人が映し出されていた。問題は次である。その展示会の後日、会話をしていた子から衝撃の発言がたらされた。
「え!?、吉野お前そこにいたの!??」
私はすべてを刹那悟った。その写真から私だけ切り取られていたのである。だが、考えてもみろ、あの容姿、コミュ力、性格、どれをとっても一級品の屑。ある意味ですごい。それ以降、気軽な誘いには乗らないようにしている。まあ、誘いなんてないのだが(笑)。そして
高校1年生が終わる。めでたい。高校2年生が始まる。この頃から私は美術予備校に通いだす。受験である。理系と文系にクラスが分けられ、私は孤立した。ただ、孤立仲間がいたため完全ぼっち生活は回避できた。2学期のはじめ、私は恋愛を覚える。クラスメイトに読書が好きで、しおらしい女の子がいたのだ。純粋に好きだった。好きな人のほうを授業中ずっと向く、休み時間にはその子の近くを歩く、教科書を意を決してきょどりながら借りる、奇行に走った。その最中だった。Y.Aという女の子が私の純朴な感情を穢した。突然だった、私には少しばかりの絵のうまさがあったので、教えてほしいとの旨だった。私の友人が彼氏だった。当時はまだ受験学年ではなく、時間もあったので承諾した。ファミレスで会合した。普通の女の子だと思った。油断した。一時の判断の過ちである。
「私の実家に行きたい」
そう言われ、家に入れてしまった。呪術廻戦で言う特級呪物である。後悔している。非常に。私の聖域に野獣を招いてしまった。事は運び、その子の帰宅時、最寄り駅までガイドをした。そこでの会話や、前述の突拍子もない発言、その後の出来事をたどると察せられるのだが、そのY.Aさんという人物、考察なのだが、少しばかり理性を欠いて本能に帰属しているのだ。ただ、私の対応もなかなかに浅薄で学校側に察知されていたら懲戒処分になっていただろう、何をしたか。不純異性交遊である。ネットカフェに行こうといわれ、ネットゲームでもするかと思いきや、体を差し出したのである。私は本能に敗れ、言われるがままに、時折私のほうから触った。その後も何度かした。私は己だけでなく、彼女も穢したのだ。高校3年生になった。本格的に周りが受験にいそしむ中、私は私なりに受験をしようとした。ただ、成績は下から数えたほうが早く、予備校でも散々だった。だがやはり、Y.Aが脳裏をよぎる。そこで私は決断した。
「やめよう、この関係」
彼女は突然の出来事に驚き、予備校での授業に身が入らなかったという。電話で思い出話をしてきた。私は大変身勝手ながら過去にくじけたことを顧み、相手のLINEを消した。ここからである、私は初めて本格的に勉強を強いられた。模試はいつもE判定、予備校での立ち位置は、下の下、腹の底まで受験が私を蝕んだ。ただ、恋愛という脳のバグを契機に私の頭は壊死していた。最底辺の評価にもかかわらずアニメ、ゲーム、享楽の限りを尽くした。
学校では、孤立し、受験という戦争の最中私に差し伸べる手はなかった。後述するが既に私の脳は限界を迎えており、受験当日、試験を途中棄権した。母親に呆れ怒られた。もちろん結果は不合格、浪人することを決意した。両親には、頭を下げた。泣き崩れた私はかえってわずかに心配された。
1浪時代
私は昼間部で割と良い成績を納めていた。脳神経の病に罹り予備校を半年で退めた。
入院時代
問診では100人に1人と言われる”統合失調症”に罹っていた。入院を現場で決断した。約4か月入院していた。看護師に診られながら過ごした。12月の終わりに退院した。
2浪時代
美術大学を諦めきれず、通っていた予備校の夏期講習に参加した、課題の講評の度問題を洗い出し暫定的な答えを出し続けていたためか、良い成績を納められた。
ただ、脳に負荷がかかるとして結局通信制の美大に通うことにした。1浪、2浪夏期講習は徒労に終わった。
そして今に至る。
ここまでつらつらと私の半生を振り返ってきた。一貫して言えるのは、私という存在は、常に他との相互扶助(私が一方的に介助されてきた)の渦中にあるということだ。一般化するならこれが正義である。ただ私という生き物は常にマイノリティでありたいと思っている。あえて私の強みをあげるなら、求められず、価値のないと宣告されることで侵食されていく良識を背にするリアリズムであろう。なぜリアリズムが必要なのか、それは20歳の私は混沌とふれあい、他者と共棲し、社会に参画するからである。現状をなんのバイアスもなく捉えることができれば、必然的に問題点が浮き彫りになり、問題も解決する。肝要なのはリアリストという等身大でネガティブだろうがポジティブだろうが森羅万象に疑いを持ち、自力で困難を乗り換えられる力である。それが身に着けたいとなれば、私は”孤独”を勧める。
 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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