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結婚相手が日本人でもなければ異教徒だと我が親に告げたとき


長く親元を離れて暮らしていても、連絡をし
ょっちゅうとることはしない。ドライ具合は
かなり上のレベルだと思う。
彼氏の有無でさえも、逐一は報告していなか
ったわたしが、このことに関しては最終的な
結婚に至る彼が現れるまでほぼほぼ沈黙して
いた形となった。

思えば20代に乗ってほどなくして、最初の
" 結婚いつするん? " がすでに始まってたよう
に思う。これは常に母からであって、父との
会話は一切ない。そして、このテの話は始ま
ったら最後、完結するまで、ず-----っと言わ
れ続けるのがオチだ。事あるごとに聞かれて
はいたが、その都度適当に流していた。聞き方が軽やかだったのはもちろん当時は、まだまだまだまだ若かったから。

30代に突入してからもそれは例外なく続き、
聞き方も少しずつ真剣味を帯びてくる。
我が娘は、(様々な意味で)大丈夫なんだろう
か、この先を共に生きていく伴侶は果たして
(いつ)見つかるのだろうかと、我が親は随分
と前から娘の未来を案じていたんだと思う。

弟の方が先に結婚してくれたこと、孫ができ
共働きの息子夫婦らのサポートで忙しくなっ
たこと.... 等々があってからは、結婚に関する
わたしへの聞き取り調査は減っていった。

そして時間の経過と共に、あれこれ口うるさ
く言うと、これまた娘に毛嫌いされると思っ
たのか、わたしの加齢に比例してタブーとな
ったのか、いよいよ諦めの境地に達したの
か、は わからないが、いつしか結婚事案には
ほっっっとんど触れなくなっていった。



結婚することを決めたこと、相手は外国人だ
ということ、いずれ改宗することになること、これら3つを伝えようと思ったその頃、
母は うつ病を患っていた。

わたしは言うタイミングを見計らっていた。
一人暮らしで離れており、実家に そうそう頻
繁には行かないので、いつ帰省しよう(言お
う)かと考えていた。田舎に住む両親にはおそ
らく想定外の(そこそこヘビーな)形態になるのかなぁと勝手に思ったわたしは、メンタルの病を抱える母に果たして今言っていいものだろうか、どう切り出したらいいものか、あれこれと迷っていた。大事なことなのに、大事なことだからこそ、あの時のわたしはそんな風に思い悩んでいた。娘は母親に一番最初に言いたかったからなんだと思う。


結局、わたしは茶の間に母がいないときを選
んで父にだけ例の3つを伝えることにした。
秒で賛成してもらえるのか、説得を余儀なく
されるのか全く予想はつかなかった。

「結婚しようと思う人がいるんだけど.... 」
父の目がパッと見開いたのが見てとれた。
「日本人じゃないんだよね。外国人なんだ」
と間髪いれずに続けた途端、見開いたばかり
の全開の目が一瞬にして半分に萎んだ。笑
父が発する「何か」を待った。恐らくそんな
に時間は経っていないはず、けど長くも感じ
た。

父は、ゆっくりと口を開いた。
賛成はできない…… ……
    けども… … 反対もできない…… … …  」

頭ごなしに大反対のセリフではなかったこと
が救いだった。やれやれ…..
きっと正直な氣持ちだろうと納得もしたし、
とりあえず何より伝え終えたという達成感が
あった。


老いてから一緒にいれる人は居た方がいいか
ら.... と常々言われていた。が、恐らく団塊世
代の彼らにとってそれが同棲とか事実婚の意
ではないということは十分理解していたつも
り。だからもう決して若いとは言えない(けど
コレがきっと自分にとっての結婚適齢期  の)
わたしがようやく公式に片付いてくれること
には とりあえず、単純にホッと胸を撫で下ろ
したにちがいない。

改宗云々については簡単な説明をした。イス
ラム教自体をよくわかっていないのもあると
思うが、それほど改宗自体は問題視をしてい
るような印象はなかった。ふぅぅ~〜ん…..
程度に終わり、これはこれでハイ終了。

伝えたかった一通りのことを言い終えてか
ら、症状にアップダウンのある母にはいつど
のように伝えるか、これは毎日一緒にいる父の思うタイミングに任せるから、と丸ごと委ねた。


こうしてわたしは自分のミッションをこのよ
うな形で終わらせたのだった。



読んでくださり
どうもありがとうございました。


長くなったので、一旦ここまでにします。
この話の続きは、次回【続編】で書きます。



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